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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎序論(3)―『嘆きの門』論~華族様の恋

  ―理想と現実―

序論(1)、(2)で紹介した『創造』『女人神聖』で扱われていた、「美しい他人の子を養育する」というテーマは、さらに、ほぼ同時期の未完の中篇『嘆きの門』においても扱われています。
この時期の谷崎潤一郎が、この異常な願望にいかに強く取り付かれていたかがうかがえます。

谷崎の基本哲学は、美しい者を上位に、醜い者を下位に置くいわば「美尊醜卑」の世界観です。
美しい者はこの世の貴族であり、何不自由なく遊んで暮らすべき存在です。しかし、現実は、必ずしも「美尊醜卑」の秩序だけで成り立ってはいません。
その美しさに見合わぬ境遇に堕ちてしまっている少年少女がたくさんいます。そのうちに美しかった少年少女も、いつしか境遇に負けてやつれ、年老い、美しさを失っていきます。
神聖冒涜ともいうべき状況です。自らの財産を彼らに捧げ、彼らにふさわしい境遇に上昇させたい。
その方が、醜い自分や自分の肉親が幸せになることよりも、ずうっと有意義なのではないか。このような考えが、谷崎にはあったはずです。

本当に恐ろしく異常な考えですが、「美」の尊さの前に、富や権力、道徳や人の尊厳、あるいは家族愛といった価値を跪かせる谷崎の哲学をよく反映したしたものと言えます。
その事がさらによくわかる『嘆きの門』を紹介して、序論を閉めたいと思います。

 ―「華族様」と呼ばれたウェイター―

『嘆きの門』の主人公は、銀座のカフェでウェイターをしている菊村という美少年です。
菊村の容姿の描写はこうです。

彼は仲間の奉公人から「華族様」と云う仇名を貰って居た。此処のカフェエに勤めているボーイたちは、一体に西洋人の好きそうなハイカラな顔だちをした、小奇麗な男ばかりであるが、しかし其の中でも今年十八になる菊村が一番年が若く、容貌も一と入水際立って居た。その目鼻立ちの上品なのと、性質のおっとりとした所とは、実際華族のお坊っちゃんのようで、小柄な、すっきりとした痩せぎすの体に給仕服を着せた様子は、ちょいと見ると学習院の生徒と間違えられさうであった。あんまり色が白く鼻筋が通って居て、洋服がよく似合うせいか、時々此処のバアへ飲みに来る西洋人が、「お前は合の子ではないか」と云って聞く事もあった。



菊村は、たびたび来店する美しい少女に恋します。少女の描写です。

少女は自分の左右に取り附いて来る男たちを満遍なく見廻しながら、口をきく度毎に花やかな生き生きとした笑いを浮かべた。


たしかに其の女は洋服の方がよく似合うし、体のこなしが凡て洋服にしっくり嵌まって居た。菊村は何となく西洋の活動写真の或る場面を見るような気がした。



少女はいつも取り巻きのような青年を複数連れていますが、ある日、三十二三の紳士を一人連れてきます。紳士はこんな様子です。

紳士は色の青白い、丸顔のむっちりとした、小柄に太った男で


兄が妹をいつくしむような、やさしい言葉づかいで頻りと少女の歓心を買って居た。


此の紳士も、話の合間々々に、妙な上目を使って、菊村の顔をぢっとまともに視詰めるのであった。



序論(1)、(2)を読んで下さった方には、この三人の関係がどのように展開していくのか、もう大体お分かりでしょうか。物語は期待通りに展開していきます。少女は菊村に話しかけるなり、高価そうなプレゼントをくれます。ある日には、二十歳くらいの書生を連れてきます。少女の書生に対する扱いはこうです。

菊村さんは此の男に気がねをして居るのね。此れは内に使って居る書生で、耳が遠くっておしなんだから大丈夫なの。」少女はあざけるが如き口調で云って、わざと書生の眼の前にあごを突き出して、人の悪い笑い方をした。



どうやら少女の方は、既にその端麗な容姿にふさわしい境遇にいるようです。
菊村が少女にすっかり夢中になった頃、少女は本題を切り出します。
以前少女と一緒に店に来た紳士が菊村を引き取って世話をしたいと言っているので、会って話を聞いてほしいというのです。
少女もその紳士に引き取られていて、菊村も引き取られた暁には少女と同様に好き放題にさせてくれるのだといいます。
にわかには信じがたい話ですが、菊村は紳士の話を聞いてみることにしました。
菊村を新しい世界に導く少女の姿は、一層美しく描かれます。

白い帽子のリボンに、白い洋服、白い襪、白い半靴―すがすがしい彼女の後ろつきが、暁の蓮の花が開いたように、爽やかな朝の空気に匂って居た。



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  ―美しい人間の権利―

紳士の家に案内された菊村は、紳士と面会します。
紳士は菊村を引き取りたいという真意を語ります。

私や此の子と同様に君は此の家の主人になるのだ。此の内に居る書生や下女には、勝手に君の用をさせるがいゝ。そうして君は此の子と兄妹のようにして暮らして行く。


先も云った通り君の希望はどんな事でも遂げさせて上げる。



さらに紳士は、なぜ菊村を引き取って世話をしたいのかを語ります。
谷崎の基本哲学がそのまま語られているといっていい部分です。

私は君のような美しい器量の少年が、カフェエのボーイと云う卑しい境遇に身を落として居るのを気の毒に思ったのだ。どうかして其の容貌に恥じないだけの満足な教育と、花やかな生活とを与えてやりたかったのだ。男であろうが女であろうが、凡べて容貌の優れた人間には、私はいつも深い同情を寄せずには居られない。たとえば此処に居る此の少女でも、そう云う理由から私が引き取って世話をして居る。


神様が美しい人間を造ったのは、美しい花を造ったのと同じように、此の世でその美しさを思う存分に発揮させたい為だからじゃないか。


日向に出せば美しい花の咲くものが、日陰に捨ててあるとすれば自然の法則に背いて居るのだ。人間にしたって理屈が二つある訳はない。美しい器量の人間が、それにふさわしい境遇を要求するのは、当然の権利なのだ。君は君の容貌に似つかわしい服装をして、君の器量に劣らない美しい少女を友達に持って、小鳥のように楽しい、快い、無邪気な生活を営むのが当然なのだ。そう云う生活をする為めに、君は此の世に生まれて来たのだ。


そうして、君の美しさが何処まで伸びて行くか、此の少女と君と、孰方が余計美しくなるか、その様子を側に居て見て居るのが、私には此の上もない楽しみなのだ。私はそんなことを道楽に生きて居る人間だと思って貰いたい。



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『創造』でも大いに語られたこの「美男美女賛美論」は、性衝動の一種であるマゾヒズムとはまた別個の思想であると考える向きもあるでしょう。
しかし私自身は、「菊村は紳士の言葉をどう受け取ったのか?」、「紳士の計らいを受け入れている少女は、紳士の説をどのように考えているのか?」「紳士は美少年と美少女に気違いじみた賛美論を捧げている間、どのように感じていたか?」などと想像すると、激しい性衝動に襲われます。
序論(1)で述べた通り、この「美男美女賛美論」こそが、谷崎のマゾヒズムの根底にあるのだと、私は考えています。

菊村が紳士の申出を受けたかどうかは、読者の想像に任されています。
妄想は膨らみます。菊村が、恋する少女と兄妹となり、新鮮で豊かな生活を送る事を選択しない理由はありません。そういう資格が自分にはあることを、彼は自覚しているはずです。
何不自由のない生活を送るうちに、菊村の中で、眠っていた貴族の血が目覚めるでしょう。書生や女中に対する扱いも、少女と同様のものに変わっていくことでしょう。
紳士との関係はどうでしょうか。
崇拝する者とされる者が、いつまでも親子のような関係でいられるでしょうか。
今までは紳士と少女は、親子のような、兄妹のような関係でしたが、少女に菊村というもっとふさわしい兄ができた以上、少女はあまり紳士を相手にしなくなるかもしれません。
そうなると、紳士はもっと卑屈な、媚を売るような態度で二人に接するようになりはしないでしょうか…。

紳士の家に仕える聾唖の書生は非常に印象的です。
少女は彼を、「此れ」と呼び、傍で内緒話をしても「大丈夫」な存在として扱っています。
つまり人格を全く認ていないのです。哀れとお思いでしょうか。
ここを読んで下さっている方なら、羨ましいと思われる方のほうが多いかもしれません。
彼にも様々な人生の可能性があったでしょうが、この家に書生として仕えること以上に幸せな人生などあり得るでしょうか。
彼の少女を仰ぎ見る気持ちはいかほどのものだったでしょうか。
誰からも崇拝される少女に一番近くで奉仕できることに悦びと誇りを感じていたことでしょう。
そんな彼は、菊村の登場には、どのような感情を抱いたでしょうか。
自分以上に少女に接近する資格を持った者が現れた事を悔しがるでしょうか。少女と二人きりになれる機会が減った事を悲しむでしょうか。
そうだとしても、そんな態度をおくびにも出すことは許されません。
菊村は彼の新しい主人となるのです。
彼は次第に、美しい主人が二人になったことに新たな悦びを感じるようになるかもしれません。
もし、菊村と少女が、紳士に内緒で兄妹の関係をを踏み越えるようなことがあったとしても、この書生の前で憚るような事はないでしょう…。
彼の視点から海賊版を作ってみても面白そうです。

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  ―醜い人間の定め―

菊村の恋の物語はここで終わりです。
物語はいきなり、紳士の過去の家庭生活の話へと移ります。
前半のファンタジックでロマンティックな雰囲気とは対照的に、後半はやけに所帯じみています。
紳士は岡田という詩人であること、つまりは『創造』の川端同様谷崎自身であることが明かされます。
岡田は家庭を全く顧みず、妻が神経を病んでも、ほとんどいたわることもせずに死なせてしまいます。
子供をかわいがった様子もありません。
なぜでしょうか。簡単です。
妻や子供が岡田を魅了するほど美しくはなかったからです。

谷崎は、女性を軽んじる武家社会以来の日本の「男尊女卑」の風習を忌み嫌います。
そして、西洋や平安時代の日本のような、女性崇拝の風習に憧れを抱いています。
しかし、谷崎のそうした考え方の根底にある思想は、女性一般を上位に、男性一般を下位に置く「女尊男卑」の世界観とは全く異なります。
「全て美しい者は強者であり、醜いものは弱者であった」(『刺青』)という「美尊醜卑」の世界観に基づく、「美女崇拝」なのです。
ですから、美しくない女性に対しては、「男尊女卑」の社会でも見ることのないような悲惨な境遇に堕とすことに何のためらいも感じません。
また、「男は顔じゃない」といった、男性美を軽んじる風習も嫌っています。
岡田が美しい少年少女に夢中になって、自分の財産や家族を犠牲にするのも、「美尊醜卑」の世界観からすれば、自然の法則に従った行動なのです。

「美しい女性が自分を崇拝する男性を苛める」という露骨であからさまなマゾヒズムが、谷崎作品の基本パターンです。
馬鹿にされたり、騙されたり、土下座したり、足を舐めたりと、類型は多種多様です。
しかし、そのマゾヒズムの根底にあるのは、一貫して「美尊醜卑」の世界観です。
序論では、基本パターンからはやや外れるものの、谷崎の世界観が象徴的にではなく、はっきりと表現されている大正時代の傑作三篇を紹介しました。

タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝 嘆きの門

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