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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎のトリオリズム(1)―『饒太郎』論~新たなる快楽の扉


告白の書 
今回は、谷崎が自分の性癖と文学の本質を洗いざらいぶちまけた、自伝的小説『饒太郎』をご紹介したいと思います。
谷崎のマゾヒズムおよびマゾヒズム文学の歴史を理解する上では、絶対に読む必要のある本当にすごい作品です。
発表は大正三年、石川千代と最初の結婚をする前の独身時代の作品で、おおまかには初期の作品といっていいでしょう。本作は、文壇デビュー直後に瞬く間に文壇的地位を確立した当時の谷崎の生活と、そこを起点に、半生を振り返り、自分の性的嗜好についての理論と実践をぶちまけている告白の書です。

主人公は、一年半ほど前から「文壇に盛名を馳せて」いる、泉饒太郎じょうたろうという名の作家です。
(余談ながら、この「泉饒太郎」という人物名は、谷崎の敬愛する文豪:泉鏡花の本名:泉鏡太郎からとられていると思われますが、鏡花をモデルにした人物ではなく、谷崎自身をモデルにした人物です。)
饒太郎の性的嗜好についてははっきりとこう書かれています。

つまり正直に簡単に打ち明けて了えば、彼は生来の完全な立派な、そうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


―即ち彼はただに異性から軽蔑される事を喜ぶのみならず、出来るだけ冷酷な残忍な取り扱いを受けて、むしろ激烈な肉体的の痛苦を与えて貰う事を、人生最大の歓楽として生きて居る人間なのである。


饒太郎は自らの性的嗜好について、「恐らくその性癖は彼の生まれない以前から、運命付けられて居たのかも知れない」と、先天性のものであることを推測しています。
饒太郎がそれを初めて自覚したのは、「まだ六つか七つの幼年時分」(当時は数え年が一般的)に、歌舞伎を観劇した際、公暁に切り殺される三代将軍源実朝を「非常に羨ましく」感じたときです。
饒太郎は学校の「腕力の弱い容貌の美しい或る友達」が公暁役になり、自分は実朝役になって切り殺される光景を想像し、次のような体験をします。

までかつて経験した事のない快感が、一種不思議な不可抗力を以って胸の奥にどよめくのを覚えた。


同好の者であれば皆覚えのあるこの感覚。
最初に自覚した年齢は人それぞれ違うでしょうが、やはりかなり幼少のときからこの快感を知っていた人が多いのではないでしょうか。
谷崎はマゾヒズムという性癖が先天性のものであると了解していたようです。

妄想の日々
饒太郎のマゾヒズムは十一、二歳になるころには、いよいよ盛んになります。

惨酷にいじめられる聯想れんそうなしには生きて行くことが出来なくなって、始終うとうとと荒唐無稽な芝居の筋書きを胸に描いては人知れず恍惚エクスタシイの境に入った。


「筋書き」とはたとえば、隣の家の「お芳っちゃん」という十四、五歳になる娘のお供をして無人島に配流され、「一生自分は忠実な奴隷となって娘の頤使いしに甘んじつゝかしずいて居る場面」だったり、「おせん」という小間使いの娘に「絞め殺されて、眼球を抉られ四肢をばくせられ、死体となってたおれて居る自分の姿を想像」したり(この妄想は戯曲の傑作「恋を知る頃」に結実します)、というものです。
饒太郎が妄想の中で崇拝したのは「身分の高い、美しい男女」であったり、逆に「下賎な人間にいじめられるほうが却って余計面白い」と感じることもありました。
後に発表される、少年時代を回想した自伝的小説「神童」と「鬼の面」では、ちょうどこのころから自慰行為の快楽に目覚め、昼夜を問わず自慰にふけったことが告白されていますから、当然これらの妄想は自慰行為を伴ったものだと考えられます。
鶏と卵のように、妄想が自慰を産み、自慰が新たな妄想を産んだことでしょう。
中学から高校、大学と進学して年を経るにつれ、饒太郎の性癖は「ますます著しく、だんだん彼の頭の働きの全部を占領するように」なっていきます。

性癖の正体―クラフト・エビングとの出会い
大学一年生のときには、饒太郎は「クラフトエビングの著作」に出会い、自分と同様の性癖を持つ人々が世界中に存在することを知ります。

此の書物の教える所に依れば、彼が今迄胸底深く隠しに隠して居た秘密な快楽を彼と同様に感じつゝある者が、世界の至る所に何千何萬人も居るのである!それ等の人々のコンフェッションや、四方の国々のprostituteの報告を読めば、彼等がどのくらい細かい点まで全然饒太郎と同じような聯想れんそうに耽り、同じような矛盾に悩まされて居るかと云う事は、怪しくもまざまざと曝露されている。


自分の性癖が自分のものだけではなく、「同好の士」が世界中にいるのだということを知ったときの感動。
現代のマゾヒストであれば相当早い段階でこれを知ることができますが、この時代にあっては、大読書人であった谷崎であったからこそ、たどり着けた真実でした。

さらに饒太郎が「クラフトエビングの著作」に出会って感動したことが二点ありました。
一つは、ルソーやボードレールがマゾヒストであったこと、ダンテ、シェークスピア、ゲーテの作品にも「著しくその傾向」があること、すなわち西洋ではマゾヒストが文豪として多く世に立ち、マゾヒスムが文学になっていることを知ったことです。

もう一点は、西洋には、マゾヒストの欲望をかなえる性産業が確立されている、ということを知ったことです。

維納ウィーンでも巴里パリでも伯林ベルリンでも欧州の著名な大都の夜の巷に色を鬻<ひさ>ぐ娼婦の間には、Boot-fetichismとかFlagellationとか、その外さまざまのMasochismに関する悪戯が、物好きな色恋の一種の形式として普通に行われて居るらしく思われる。


※Flagellationは鞭撻愛好

西洋の女性―殊にProstituteの嫖客に接する態度がいかにも活發で刺戟的で、微温的な婦人の夢想だもし難い強烈な色彩と、複雑な手段と進歩した仕組みの下に、いろいろの形式でありとあらゆる歓楽の注文に応ぜんとする露骨な気風の存する事であった。



実践と著作
ここにいたって、饒太郎の自慰用妄想は、二つの方向で饒太郎の脳内を飛び出し、外に発露していくことになります。 
一つの方向は、「著作」です。
饒太郎は自慰用妄想をそのまま小説にして文壇に挑みます。

彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分はMasochistenの藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った。


彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない


これは本当にすごいことです。
西洋においてマゾヒズムが文学になっていることを知ったといっても、それを当時の日本で理解していた人はほとんどいません。
誰にも理解されないかもしれない、奇異の目で見られるだけで終わるかもしれない、弾圧の対象になるかもしれない、この国にかつて誰も通ったことのない道を「此の世に生きる術」とすることを、ここまで自信満々に決意する。
そして結果として、西洋のマゾヒズム作家の誰も得たことのない地位を日本の文壇に築いてしまった。
こんなすごい人が「先輩」であり、「祖」であることを、本当に誇りに思います。

もう一つの方向は、「実践」です。
饒太郎は妄想と自慰だけでは飽き足らなくなります。

何とかして一度はその想像を実際に経験してみたい。美しい婦人の手に依ってならば、どのような残忍な苦悩を享けても、あるいは人知れず殺されてしまっても差支えないから、一生のうちに一度此の肉体を虐げて貰いたい。


という希望を抑えきれず、ついに妄想を実践に移していきます。
谷崎は徹底的な実践派のマゾヒストです。
饒太郎がは著作と実践の関係についてこう言います。

おれのほんとうの創作は著述よりも実生活にあるのだ。己の芸術家たる所以ゆえんは、己のライフ其の物に存して居るのだ。


小説の上でその美を想像するよりも、生活にいてその美の実態を味わう方が、彼にとって余計有意味な仕事となって居る。


とあるように、谷崎にとって実践は著作のための手段ではなく目的であり、著作はその実践の記録するために生まれた副次的なものに過ぎません。
青春時代は「妄想」と「自慰」が鶏と卵となっていたのですが、作家となってからは、「実践」と「著作」が鶏と卵となり、果てのない連鎖を引き起こしていきます。

しかし当時の日本において、この「実践」は容易ではありません。
西洋のようにマゾヒストの願望を理解する「Prostitute」(娼婦)のいない東京において饒太郎は、さまざまな階級の娼婦に、余分な金を与えて頼んでみますが、「そんな恐ろしい事は出来ない」と言われ、応じてもらえません。

「どうぞ私をひどい目に遇わせて下さい。蹴ろうとなぐろうとふん縛ろうと勝手にして、死ぬような目に遇わせて下さい。」
酔いに紛れて彼は屢々しばしばそんな事を頼んで見たが、可笑しがったり気味悪がったりして真に受ける者は一人もなく


そこで饒太郎はこう考えます。

自分の気に適った女を捜し出して、次第々々に豪胆な、残忍な性質を具備するように教育するのが一番捷径しょうけいである。


この「自分好みのドミナを育成する」という発想は、谷崎の実践の基本姿勢で、これが後に「捨てられる迄」を経て大傑作長編「痴人の愛」に結実します。

若く美しい富豪の未亡人:蘭子と懇意になった饒太郎は、蘭子を理想のドミナに育成しようと試みます。
饒太郎は道化のようにペコペコと卑屈な態度をとり、自分を卑下して蘭子を賛美し、貞淑だった蘭子が次第に増長していくのを待ちました。
しかし蘭子は、ピストルで饒太郎を脅したり、平手で顔を叩いたりするまでには変化しますが、饒太郎に惚れてしまったがゆえに、それ以上饒太郎を虐待することが出来ません。
「男は女を愛し敬い、女は男を虐げ卑しめる」関係を望む饒太郎は、蘭子に愛想をつかせてしまいます。

理想のドミナ
饒太郎は友人の待合(売春斡旋業者):松村から、おぬいという娘を紹介されます。
お縫が実は相当に素行の不良な少女だと知って興味を抱いた饒太郎は、お縫を一目見ると激しく心を惹かれ、松村に大金を収めてお縫を愛人にします。
デートをしてもなかなか心を開かないお縫に対して饒太郎は、蘭子にしたような時間をかけた育成を断念し、「相手が仮面を脱ぐのを待つ迄もなく、此方から進んで、自分が憐れむべきMasochistenであると云う秘密を了解させ、邪悪なる妖婦の本領を自分の前に発揮するように頼んでみる」事を決意します。
蘭子のように打ち解けた関係を形成してしまってからでは、相手の女は自分を虐待するのが難しくなると考えたのです。
饒太郎は自分のパトロンである富豪に借りている邸宅の西洋館にお縫を連れ込み、一気に決意を実行に移します。

「どうぞお願いだから、僕をお前の乾分こぶんのように取り扱っておくれ。乾分で悪ければ奴隷でもいゝ。飼い犬でもいゝ。餌食でもいゝ。」
「たとえばこゝに麻縄と鞭があるね。一番僕を赤裸にして、此の麻縄でふん縛って、鞭でピシピシ打って貰いたいんだ。ねえ、唯其れだけで五拾円にもなるんだから、何でもない事だろう。」
「今となればもう何も彼も白状するが、僕は性来、女に可愛がられるよりも、いじめられるのを楽しみにする人間なんだ。
お前のような若い美しい女たちに、打たれたり蹴られたり欺されたりするのが、何よりも嬉しい。出来るだけ残忍な、半死半生な目に遇わされて、血だらけになって、うなったり悶えたりさせてくれれば、世の中にこれ程有り難い事はないんだ。」


饒太郎の懇願を黙って聞いていたお縫は金を受け取ると、「そんなら裸におなんなさいまし」と命じ、要求どおり饒太郎を麻縄で俯きに縛り上げてしまいます。
それを仰向けにするときも、「足で蹴返してくれゝばたくさんだ」という要求のとおりにし、饒太郎の用意していた麻薬を嗅がせて気絶させ、それを放置して出て行ってしまいます。
お縫はまさしく饒太郎が捜し求めていたドミナでした。
その後は毎日西洋館で鞭や鎖を使うのも厭わず饒太郎の要求をかなえていき、対価としてさんざん金を巻き上げていきます。

お金があるうちだけは、奴隷にでも何でもして上げてよ。それから後は知らないけれども。


といいのけるお縫は、まさしく理想のドミナです。
お縫と一致する不良少女の娼婦は、本作とほぼ同時期の出来事を別の側面から回想した「異端者の悲しみ」にも登場しますから、谷崎が実際に探し当てたドミナがモデルになっているものと思われます。

スクビズムの楽園
西洋館には饒太郎とお縫以外には女中や使用人も含めて立ち入ることがありません。
「何かが始まる時には、必ず四方の窓掛けが下がって、扉の錠が卸されるので、外から様子は解らない」状態になります。
この西洋館は、外部から物理的に隔絶されて、外の社会とはまったく異なった秩序が形成され、マゾヒストの願望を思うさまにかなえられる夢空間となります。
『少年』の塙の屋敷や、『富美子の足』の七里ガ浜の別荘と同じ、「スクビズムの楽園」です。
この楽園の中で行われていた「何か」の内容は、詳らかに描写はしてくれていませんが、マゾヒストのみなさんであれば容易に、またそれぞれの好みに合わせて想像することができるでしょう。
作品ではそれをかすかに示唆する記述がなされています。

突然室内から不思議な音響……ぴしり、ぴしり、と、あたかも鞭でなぐって居るような音響が洩れる事に気が付いた。すると翌日また一人が、ちゃりん、ちゃりんと鎖を引き擦るような響きがして、同時に床板をどたんばたんと激しく何者かゞ転がり廻って居る音を聞いた。


饒太郎はお縫のような理想のドミナをそう何度も得ることは難しいことを悟っていため、「今度のような快楽は一生に一度の快楽である」と考えて夢中になってお縫との行為にのめりこみます。

マゾヒストは快楽の追求者です。
妄想と自慰、そして実践。
マゾヒスト向けの風俗産業のない時代・国に生まれた饒太郎は、自らドミナを求めて蘭子を育て、それに飽き足らなくなるとお縫を得てついに理想の状況を手にしました。
饒太郎がたどり着いたスクビズムの楽園。
これはマゾヒスト・饒太郎の到達点のはずです。
しかし、一度理想を手にしてしまうと、しだいにそれでは飽き足らなくなってきてしまうのがマゾヒストです。
手にした理想を失いたいという願望、更なる深みへ落ちて行きたいという願望が、しだいに生まれていきます。

饒太郎は、お縫との行為を邪魔するあらゆるものを遮断する理想の楽園たる西洋館へ、自ら「侵入者」を迎えることで、新たなる快楽の地平への扉を開いてしまいます。

新たなる快楽の扉
饒太郎には、庄司という美しい青年の友人がいました。
庄司は最初、饒太郎に憧れて弟子を志願してきたのですが、庄司の美貌が気に入った饒太郎は、弟子ではなく友人として庄司と付き合うことにします。
庄司はある大きな料理屋の息子で、相当に裕福です。
そして偶然にも、お縫はかつて庄司の家で奉公しており、そのころお縫と庄司は恋仲だったのです。
お縫は庄司の家で盗みを働き、追い出されて松村に引き取られていたのでした。
饒太郎と関係を持つようになって、自由と金を手にしたお縫は、庄司とよりを戻そうと手紙を出します。
饒太郎の前で庄司によって暴露にされたその手紙の内容が、たまらなく刺激的です。

わたくしは毎日毎日邸の西洋館へ這入り込んで一日その男の相手を勤めて居ります。
明後日も午後の一時から夕方の六時ごろまで其処へ参りますから、帰りに是非是非お目にかゝりとう存じます。
(中略)
この男は少し気違いじみた人間で何でもわたくしの云うなり次第になるんです。
お金でも着物でも、寄こせと云えばいくらでも寄越すのです。
一日でも顔を見せてやらないと、すぐにわたくしの所まで迎いに来るくらい夢中になって居ります。
此の泉と云う人はほんとに奇妙な男でございます。
何でもわたくしにひどい目に遇わして貰えば其れが嬉しいそうで、毎日毎日たゞわたくしに打たれたり蹴られたりして喜んで居ります。
それ故わたくしは此の人にどんな無理な事でも命令することが出来るのでございます。

…ですから此の男に麻酔を嗅がせて眠らせて置けば、毎日でもあなたとゆっくり御話をする時間がございます。
…今に此の人は私のために裸になって了うかも知れません。
…若旦那様、私がこんな悪魔になって了った事をお許し下さいまし。
(中略)
もう此の頃は毎日毎晩、あなたのお美しい、絵のようなお顔が眼の前にちらちらして居りますのよ。


いやはや…すごいですね。
すごい。
私はこのお縫が庄司に宛てた恋文の中に、トリオリズムの快楽の真髄のすべてが見事に書き込まれていると思います。
一つは、饒太郎の感情が完全に100%お縫に向かっているのに、お縫の感情は完全に100%庄司に向かっている、この「感情の一方通行」。
二つ目は、同性である庄司と饒太郎のお縫から見た男性的魅力=人間としての価値の圧倒的な差をダイレクトに味わわされること、すなわち「美尊醜卑」のヒエラルキーを痛感させられることです。
三つ目は集団心理による加害行為の過激化です。
生来性悪で残忍なお縫ですが、饒太郎の性癖を庄司に暴露して庄司という仲間を自分の側に加えることで、集団心理を得て、饒太郎と一対一の状況よりも饒太郎に対する加害行為の精神的ハードルが下がっていることがうかがえます。
どんな世界でも3人いればイジメが成立しうるのと同じです。
強者たるお縫にさらに多数者としての増長が加わり、弱者たる饒太郎はさらに少数者としての惨めさを味わうことになるのです。
四つ目には、饒太郎を庄司との逢瀬に利用しようする「手段化」です。
金銭のみを媒介にした隷属関係とトリオリズムが非常によくマッチする(谷崎作品にはこれが非常に多いです)のは、貨幣が人類が生み出したすべての「目的」を実現しうる究極の「手段」だからです。

このお縫の手紙は、あえてドミナの側の視点から見ることで、トリオリズムの快楽の真髄を非常に官能的に詰め込んだ見事な一節ですね。

さて、饒太郎は手紙の暴露を受けて、自分とお縫の二人だけで築き上げてきたスクビズムの楽園である西洋館へ、庄司を誘い込みます。
このときの心理描写に、トリオリズムという新たなる快楽の地平への扉を開けんとする瞬間の、マゾヒストらしい「落ちていく悦び」が見事に表現されています。

青年が強者の形を備えれば備える程、彼はますますMasochismの原則に従って壓倒あっとうされる事を喜ぶように傾き始めたのである。
(中略)
饒太郎は青年を案内して西洋館へ這入って行った。
彼の胸の中には、或る新しい楽しみが密かに計劃けいかくされて居た。



そして物語は、最も美しいクライマックスへと展開します。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつも通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。
我にかえった一二分間、しきりにぱちぱちと眼を瞬いて居たが、やがてぱっちりと瞳を据えると、殆ど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。
あの青年と娘が睦じそうにソオファへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。
(中略)
娘は面白そうに笑った。
「庄司君、僕は毎日斯う云う目に会わされて居るんだよ。どうだい、僕の気違いだと云うことが解ったかい。」
(中略)
「君とお縫のためならば、どんなに侮辱されても平気なもんだ。だから其の代り、二人とも僕を捨てないでくれ給え。僕は君たちの奴隷となって使って貰えれば結構なんだから。」


この構図!
スクビズムとトリオリズムの見事なミックス。
上位者と下位者のコンポジション。
谷崎の最も得意とする描写です。
上位者の顔と下位者の顔の位置関係、その隔絶を辛うじて媒介するかのような上位者の足。
着衣の上位者と全裸の下位者。
完全に自由な上位者と完全に自由を奪われた(委ねた)下位者。
短い描写で見事に表現していますね。
本当に官能的で美しいです。

谷崎のマゾヒスムは、常に西洋崇拝とトリオリズムとともにあります。
一度新しい快楽の扉を開けてしまった者は、なかなか元の部屋に戻っては来れません。
本作は谷崎が自身の性癖を余すとことなくぶちまける中で、トリオリズムという快楽の扉を開けた瞬間のあの恐ろしく、それでいて包み込まれるような衝動を、見事に表現した作品です。
繰り返しになりますが、必読中の必読です。

タグ : 谷崎潤一郎 マゾヒズム小説 三者関係 寝取られ

『ある夢想家の手帖から』全章ミニレビュー 第3巻「おまる幻想」

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』につき、全章をミニレビューをつけて紹介していきます。
入手できた挿画、関連する画像を合わせて掲載します。

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第六八章
マゾッホの奴隷契約
『毛皮を着たヴェヌス』に登場する奴隷契約と、マゾッホ自身がファニイ・ピストル夫人、オーロラ・リューメインと結んだ奴隷契約を紹介。

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レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ

第六九章
恋人の庭の熊(『リリの動物園』)
美少女に飼われる熊の切ない慕情に、自らの恋を重ねたゲーテの詩を紹介。

第七〇章
お前は熊だよ
畜化願望の一類型として熊となる願望を紹介。毛皮を着て熊になりきれるのが利点のようです。

第七一章
奥様の反吐
以下五章は汚物愛好コプログラニアについて。
とっかかりは沼の祖父の話。
ある伯爵家のお抱え車夫だった祖父は、奥様が訪問先で吐き出した反吐を素早く片付けるために啜った、というもの。

第七二章
浄穢不二
「浄穢不二」つまり綺麗・汚いの差など表面上のもので、本質的には差はないという禅門の思想を、汚物愛好と結びつけます。

第七三章
髑髏便器
自らの頭蓋骨を崇拝する女性に遺贈し、死後に便器となるという妄想。
付記では、清宮貴子内親王に対する並々ならぬ憧憬を吐露しています。

第七四章
未来の便所
未来の排泄風俗を予想し、人間便器や髑髏便器実現の可能性を考察。

第七五章
三つの勤務
女主人からマゾヒストへの返信シリーズ。
汚物愛好者コプログラニストに対して、三段階の調教を行うというもの。
第一段階:奴隷勤務
第二段階:便器勤務
第三段階:舐め勤務(クンニリングス)

第七六章
日本のクイーン
吉田茂の三女:麻生和子を貴婦人崇拝者パジストにとっての理想の貴婦人として、並々ならぬ憧憬を吐露しています。
(麻生太郎元首相のお母さんですね。)

第七七章
ドミナの三要件―パジストよりみたる麻生夫人―
貴婦人崇拝者パジストにとっての理想のドミナの要件は、高貴、財産、驕慢であるとし、麻生和子がこの要件を満たしていることが伺えるエピソードを紹介します。

附記では「今の世で最もドミナ的特性に富む女性」ジャクリーン・ケネディ・オナシスについて。

当時のマゾヒズム作家陣は沼正三以外にも白人崇拝・貴婦人崇拝・乗馬女性崇拝者が多く、それが三拍子そろったジャクリーンの狂崇的な崇拝者が続出したようです。
白野勝利『ジャクリーンの厩』、天野哲夫『女帝ジャクリーンの降臨』など、たくさんのジャクリーンに対するオマージュ作品が紹介されています。
一群の外国人の心をここまで狂わせるジャクリーンの魅力に脱帽叩頭させられますが、この世代の抱える米国に対するトラウマの深刻さも感じずにはいられません。

沼は妄想します。ジャクリーンは、日本の作家たちが馬になっって自分に乗られたり、便器になって自分の排泄したものを口にすることを渇望し、果ては万世一系の君主を廃して自分を国家の主権者に迎えることを妄想して、競って小説にしていることを知ったらどう思うか。「あたりまえよね」と愛娘のキャロラインと顔を見合わせて笑うのではないかと…。

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ジョン・F・ケネディ大統領とジャクリーン夫人              キャロライン・ケネディ

第七八章
男ではない、奴隷ですわ
フランス人女性の一八世紀ロシアの見聞録より。
慎み深い公爵令嬢が、召使に放尿の手伝いをさせる。
貴婦人・令嬢の、貴族同士に対する態度と、下層階級の者に対する態度の落差を重視するのも、沼の貴婦人崇拝パジズムの特徴です。

第七九章
最初に犂を曳いた者
アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』よりナチス・ドイツの思想について。
先史時代のアリアン人種について、『リグ・ヴェーダ』などの古典研究の結果ヒトラーが得た結論は、以下のようなもの。
・アリアン人種は馬などの家畜よりも先に劣等有色人種を奴隷として使役しており、アリアン人種が発明した犂による耕作など、後に家畜が行うことになった労働も先に奴隷が行っていた。
・劣等有色人種は生存競争の原理に従えば絶滅すべきところを、アリアン人種に征服され奴隷になることによってのみ、生存することが可能となった。よって劣等有色人種はアリアン人種に征服され使役されたことを感謝すべきである。
・征服された劣等有色人種の奴隷労働が苦しいものであったとしても、それによってアリアン人種の文化建設に役立つことができたのだから、やはりアリアン人種に征服され使役されたことを感謝すべきである。

この思想は必然的に現在および将来のアリアン人種世界制覇を正当化します。
そして、アリアン人種は劣等有色人種を征服し奴隷化・家畜化することで「人間以上のもの」へと進化していき、劣等有色人種は「人間以下の境涯」へと堕ちていく…ということになります。
これについても本来無意義に死に絶えていく運命のところ、神に近づいていくアリアン人種に奉仕できることを、劣等有色人種は感謝すべき…ということになるのでしょう。

第八〇章
苦しくはあるが有用な
白人種が、有色人種の苦痛を理解しながらもし、白人種にとって有用な場合にはそれをほとんど問題にしないことを例証します。

第八一章
プロジェクト「奴隷化」
個人的に全章中一番好きな章です。

沼正三の脳裡に形成された「白人が支配する世界」の妄想は、やがて『家畜人ヤプー』のイース帝国に結晶するのですが、そこに至るには途中大きく二つの流れがありました。
一つは第一七章「混血への妄想」で紹介された、敗戦後の日本が米国の属領となる妄想。
もう一つが本章に紹介された、日本がナチス・ドイツに占領支配され、その人種論に基づいて日本人が計画的に奴隷化されていくという妄想です。

その万事に及ぶ妄想の中から、教育制度が詳述されています。
日本人は幼児期から少年期に受ける高度に効果的な教育によって、白人に奉仕することを至上の喜びとする奴隷に育っていきます。
教育は主に下記三段階です。
第一段階(乳児期):白人家庭に預けられ、白人の下半身に対する憧憬を植えつける。
第二段階(児童期):日本人の学級全体で一人の白人生徒に奉仕する。
第三段階(少年期):当番制で白人家庭に家事奉仕する。
それぞれすばらしくマゾヒスティックな設定が非常に詳細に書かれており、これはいずれ別記事で紹介したいと思います。

さて、イース帝国にいたる二つの日本占領妄想のうち、第一七章「混血への妄想」の方は、「日本人女性を白人男性に寝取られる」という奇怪グロテスクなトリオリズムと、それによって生まれる混血ハーフを中間支配者とすることで純粋白人との隔絶をより深刻にする、という点が特徴です。
これに対して本章に描かれる占領政策においては、混血は禁止されています。
『家畜人ヤプー』にはこの混血禁止が受け継がれています。「日本人女性が孕まされる」という願望は子宮畜ヤプムのくだりにわずかに反映され、中間支配者には黒人が起用されました。
一方、家事奉仕を重視する奴隷願望セルヴィリズム、性欲を昇華した白人の肉体への一方的憧憬を重視する侍童願望パジズム、白人の足元に這い、尻の下に跪くことを重視するスクビズムといった本章の妄想の特徴は、そのまま『家畜人ヤプー』に受け継がれています。

そういう意味で、『家畜人ヤプー』に直結したのは、本章に紹介された妄想といっていいでしょう。

第八二章
ネアンデルタール人の血
クロマニンヨン人がネアンデルタール人を征服して家畜として使役した。
馴致されたネアンデルタール人はクロマニンヨン人を崇拝し、服従することに満足するようになった。
その上で異種間通婚が起こり、その混血児の子孫は、「家畜的服従への衝動」を持つマゾヒストとなった…という説。

第七九章・第八二章附録
(二俣女史に答えて)
二俣志津子という作家が第七九章「最初に犂を曳いた者」の記述に異論を唱えたことに対する反論を掲載。
ここに、この『ある夢想家の手帖から』というエッセイ集の本質が記されています。
つまり、これはマゾヒストが読んで性的に興奮することを目的とした文章であり、それがたまたま小説ではなくエッセイ集という形態をとっている、ということです。
例えば白人崇拝に関していえば、
「これこれこいうわけで、白人種は優等で有色人種は劣等である…というふうに考えると、興奮してしまいます。」
これの「…というふうに」以下をあえて省略しているんですね。
女性崇拝で言えば、
「これこれこういうわけで、女性のほうが男性より優れています。」
となるわけです。
この際、「歴史的に真実かどうか、科学的に正当かどうか、そんなことは本来眼中にない」んですね。
もちろんまったく事実でない妄想は「これは妄想です」と断っていますが、「白人種は優等で有色人種は劣等である」「女性のほうが男性より優れている」といった結論に寄与する事実は積極的に採用するし、寄与しない、不利となる事実は無視します。読者を納得させることを目的とするエッセイであれば、これではダメなんですが、『手帖』は読者を性的に興奮させることを目的としているので、これでいいんですね。
これは、歴史上・同時代の人物・出来事に関する記述についても同様です。
理想のドミナとして紹介する場合はそれに寄与するエピソードだけを記述し、男性をマゾヒストとして紹介する場合はそれを裏付ける言動のみを取り上げます。
あるいは文学作品の解釈についても同様に、マゾ的に興奮できる箇所のみを取り上げ、都合よく解釈してしまいます。

第八三章
空想科学小説についての対話
なぜか本章は沼と弟子のような人物との対話編で語られています。
マゾヒスティックな空想科学小説を紹介。

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『巨人族の娘』の表紙

第八四章
地獄の谷間(『ペット・ファーム』)
ロージャー・ディの『ペット・ファーム』を紹介。
昆虫型の宇宙人「ヒメノプス」に征服されて馴致された地球人が、ヒメノプスのペットである蛾の餌となり、ヒメノプスが去った後も嬉々として蛾の餌となり続けている…というもの。

第八五章
若いマゾヒストの告白
戦前雑誌に掲載され、繰り返し盗用されたある匿名の報告を紹介。
複数の女性(女群)に陵辱される体験が特徴。

第八六章
ある洟汁賛歌をめぐって
クラフト・エビングの著作に報告された事例。
東洋人の留学生が大家の英国夫人に恋し、夫人が洟をかんだハンカチを盗み、洟汁を舐めた、というもの。

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エリザベス・テイラー

第八七章
加虐への開眼(『月光』)
有馬頼義『月光』を紹介。

令嬢阿也子は保尊中尉に強姦され、結局彼の妻となり、北満に同行する。
保尊中尉は当番兵の大西を召使として使役しており、やがて阿也子も大西を酷使するようになる。
保尊中尉は大西に阿也子の肌を風呂場で洗わせたり、阿也子との夜の営みを見せ付けたりもする。
終戦後帰国した三人は、大西の家に住むことになるが、大西は妻の松枝を差し置いて主人の妻阿也子にかしずく。
保尊中尉は松枝を寝取って孕ませる…などなど。
最後には、阿也子が大西を殴る。
沼はこれを阿也子の「加虐への開眼」と解釈します。



第八八章
荷車犬志願
荷物を挽く挽畜について。直接騎手に乗られるという「ご褒美」がない分、むしろマゾヒスティックではないか、としています。

第八九章
人か犬か(『狂った人々』)
香山滋『狂った人々』を紹介。
浮浪児が美少女のいたずらによって自分のことを犬と信じ込んでしまう。少女は浮浪児を本当の犬として扱い、大八車を挽かせる…というもの。

第九〇章
閨房の備品になった男(『丹夫人の化粧台』)
横溝正史『丹夫人の化粧台』を紹介。
老博士の若き夫人が寝室の化粧台の中に美少年を愛人として隠している、というもの。

第九一章
人間から畜生へ
前章で紹介した『丹夫人の化粧台』から妄想を膨らませた沼の二次創作。
鍵をつけて愛人を閉じ込めた夫人は、やがて愛人を畜生扱いにし、飲用水を供給するために作った洗面台で足を洗い、猫の残飯を与える…などなど。

第九二章
死ぬまで檻の中においで(『ポンパドゥールの奇行』)
マゾッホ『ポンパドゥールの奇行』を紹介。
一八世紀フランス。崇拝する令嬢アドリアンヌの歓心を買うため、国王の寵妃ポンパドゥール夫言い渡される。
詩人はアドリアンヌの結婚式の日、狭い檻に入れられ、パリの公衆でさらしものにされる。
詩人はその後も狭い檻に収められているが、ポンパドゥールもアドリアンヌも詩人の存在などとうに忘却してしまっている…などなど。

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フランソワ・ブーシェ『ポンパドゥール公爵夫人』

第九三章
人間燭台(『燈台鬼』)
南条範夫『燈台鬼』を紹介。
遣唐使の小野石根が、唐で遭難して奴隷として売られ、余興として宴会の座を照らす人間燭台となるという話。

第九四章
痴愚扮技(『幻炎』)
黒田史郎(天野哲夫)『幻炎』を紹介。
痴愚者を装って女性に嘲弄され、奴隷や家畜の気分を味わう、というもの。

第九五章
お嬢様のお靴を……
ドイツ人の症例。
丁稚奉公先で令嬢の長靴ブーツを磨かされる青年の話。

タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝

新和洋ドミナ曼荼羅(3)―ヘブライ神話の美女

マゾヒストにとっての理想のドミナを、具体的に列挙しています。

第二回目は、ヘブライ神話に登場する美女を取り上げます。
『旧約聖書』『新約聖書』によって世界史に最も強い影響を与えた古代神話です。


リリス
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ジョン・コリア『リリス』
人類最初の女性
『旧約聖書』の「創世記」では、最初の人間は男性のアダム、最初の女性はその妻のイヴで、イヴはアダムのあばら骨から造られたとされています。
しかし、イヴが造られる以前に、アダムにはリリスという妻がいたという伝承もあります。
リリスはイヴとは違い、アダムと同じように土で造られました。それだけにイヴのようにアダムによく従う従順な妻ではなく、アダムの支配を受け入れず、性交の際には騎乗位を求めます。

悪魔たちと…
その上リリスはアダムを捨ててエデンの園を去り、紅海沿岸に住みつきました。そこで数多の悪魔と淫蕩に関係を持ち、リリンと呼ばれる悪魔たちを産みます。
アダムはイヴと結ばれた後も美しいリリスを忘れがたく、神にリリスをエデンの園に戻してほしいと懇願します。神は天使を遣わしてリリスを説得しますが、リリスはこれを拒否します。おそらく、悪魔との魅惑的な性交はリリスにとって、アダムとの退屈な性交とは比べ物にならない快楽だったのでしょう。
リリスの産んだリリンはアダムとイヴの子孫たちを誘惑し、破滅させます。リリス自身も悪魔としての能力を身につけ、男児だったら生後八日間、女児だったら生後二十日間、リリスはその運命を好きにすることができ、生かすも殺すも思いのままにできるようになったといいます。
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ギュスターヴ・アドルフ・モッサ『彼女』


バテシバ
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ギュスターヴ・アドルフ・モッサ『ダビデとバテシバ』
水浴びを見て
最盛期の古代イスラエルを指導した大預言者ダビデ。そのダビデが犯した大きな罪悪が、バテシバとの不倫です。
ある日、ダビデは宮殿の屋上を散策していたところ、眼下にうっとりとするほど美しい女がまばゆい裸体をあらわにして水浴びをしているのが目に入りました。欲情に駆られたダビデは急ぎ美女の素性を調べさせたところ、美女は勇猛な軍人ウリヤの妻バテシバでした。それを知ってもダビデは恋心を抑えることができず、バテシバを宮廷に呼び、想いを遂げてしまいます。

夫を抹殺
さぞかし激しい情事だったのでしょう。バテシバはすぐさま妊娠してしまいます。あせったダビデは様々な計略で姦通の証拠を隠蔽しようとしますが失敗し、追い込まれたダビデは卑劣にも王の権力を悪用し、ウリヤの上官に彼を戦地に一人置き去りにして退却するよう命じました。こうしてウリヤを死に追いやったダビデは、寡婦となったバテシバと盛大な結婚式を挙げ、后としてしまいす。


デリラ
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ピーター・ポール・ルーベンス『サムソンとデリラ』
銀貨千枚で愛人を…
デリラは、イスラエルの預言者サムソンを死に至らしめた美女。
サムソンは超人的な怪力の持ち主で、パレスチナ人と抗争中のイスラエルを指導していました。
サムソンがデリラの美貌に夢中になったことを知ったパレスチナ人の指導者は、デリラを銀貨千枚で買収します。デリラはある晩サムソンを寝かしつけると、サムソンの怪力の秘密を巧みに聞き出します。サムソンの怪力の秘密は髪の毛。パレスチナ人はこっそり忍び出してサムソンの髪の毛を切り、サムソンの両目を剣で抉り出してしまいます。サムソンは暗い監獄で石臼を挽くという辱めを受けることになります。
このサムソンとデリラの神話は、ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』にも引用されています。


ユーディット
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カラバッジョ『ユーディットとホルフェルネス』
体を武器に
敵将の首を刈り取った神話で知られる女傑。
アッシリアの将軍ホルフェルネスの軍によって占領されたイスラエルの山岳都市ベトリア。ベトリアの貴族出身の未亡人ユーディットは、祖国を救うために身を投げ出す覚悟で立ち上がります。ユーディットは美しく着飾ってアッシリア軍陣営に赴き、ホルフェルネスに会わせてくれと頼みます。
ホルフェネウスはベトリア最高の美女に心を奪われ、ユーディットを幕舎の寝室に招き、思いのたけ肉欲を満たします。激しい性交に満足したホルフェルネスが深い眠りに落ちた瞬間、機会を窺っていたユーディットは剣を引き抜き、ホルフェルネスの首をひと思いに切り落としてしまいます。動転したアッシリア軍はベトリアを放棄して逃走してしまい、ベトリアには自由と平安が取り戻されました。
ベトリア市民は熱狂的にユーディットを讃え、絶え間ない賛辞が送られました。未亡人が男に体を許したということは、神の戒律に反するはずですが、この際それを問題にする者はいませんでした。
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ジョルジョーネ『ユーディット』                      ルーカス・クラナッハ『ユーディット』


サロメ
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ギュスターブ・モロー『ヘロデ王の前で踊るサロメ』(部分)
義父であるパレスチナ総督ヘロデ・アンティパスをして、イエスに洗礼を施した聖洗礼者ヨハネの首を切らせた魔性の美少女。
舞で王を魅了
西洋絵画で「美女と生首」の組み合わせがモチーフとされている場合、美女が自ら剣を持っている場合はユーディト、美女が盆に生首を載せている場合にはサロメです。
サロメはヘロデの弟の娘でしたが、ヘロデは弟の死後サロメの母ヘロディアをわがものにします。聖洗礼者ヨハネはこれを批判したたため逮捕され、ヘロデの宮殿の牢獄に繋がれます。ヘロディアはヘロデにヨハネを処刑するようにしきりに求めますが、ヘロデはヨハネを預言者として畏れていたため、処刑をためらいます。
ある晩宮殿では宴会が開かれます。サロメの美貌に夢中になっていたヘロデは、サロメに舞を披露するように求めます。サロメは舞う対価としてどんな頼みごとでも聞くかとヘロデに迫ります。魅惑されたヘロデは操られるように「どんなものでもサロメの欲するものを与える」と誓約してしまいます。

なぜ聖洗礼者の首を?
サロメは美しい舞を見せた上で、ヘロデに「聖洗礼者ヨハネの首」を求めます。ヘロデは「他のものなら何でも与えるから、それだけは求めないでくれ」とサロメに懇願しますが、サロメはあっさりと拒絶します。かくしてヨハネは斬首され、血の滴るヨハネの生首が盆に載せられ、サロメのもとに運ばれました。
サロメはなぜヨハネの首を求めたのでしょうか。ヨハネに激しく非難されていた母ヘロディアが、娘を利用してヨハネを殺させたと解されています。
サロメの神話は後世数限りない芸術作品のモチーフになりました。もっとも有名な作品のひとつがオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』です。この戯曲では、サロメはヨハネに恋し、キスを拒絶されたために、サディスティックな欲望を満たすため、ヘロデにヨハネの首を求めたと解されています。
自ら男の首を落とした女傑ユーディットと、美貌によって男たちを操って男の首を手に入れた魔性の美少女サロメ。
あなたはどちらが好みですか?
沼正三なら言下に「ユーディット」と答えるでしょう。
谷崎潤一郎は、どちらも好きですね。
ちなみに私はサロメ派です。
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ジャン・ベネール『サロメ』

タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝 サロメ リリス

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