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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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目次


はじめに
マゾヒスト・谷崎潤一郎―真に理解しうる人々による真の理解を目指して

総論
日本のマゾヒズム文学の三大要素
スクビズム総論
苦痛と陵辱
愛情の一方通行
女の忘却
手段化法則と物化倒錯
生体家具の代替性と慈畜主義
セルヴェリズムとパジズム
トリオリズム総論
ミスター・ポストマン―マゾッホと谷崎のトリオリズム
白人崇拝論
明治人の仰ぎ見た西洋人
韓国崇拝論
ドミナの類型学
「思想小説」か「好色文学」か
谷崎潤一郎と沼正三の共通点と相違点

谷崎潤一郎序論
『創造』論~美男美女崇拝
『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹
『嘆きの門』論~華族様の恋

谷崎潤一郎のスクビズム
『少年』論~スクビズムの楽園
『富美子の足』論~やっぱり足が好き!
『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽
『神童』『鬼の面』論~自慰と妄想の青春

谷崎潤一郎のトリオリズム
『饒太郎』論~新たなる快楽の扉

谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー
第一巻 <「象」「刺青」「麒麟」「少年」「幇間」「飆風」「秘密」「悪魔」「羹」「続悪魔」他>
第二巻 <「恋を知る頃」「熱風に吹かれて」「捨てられる迄」「春の海辺」「饒太郎」「金色の死」「お艶殺し」他>
第三巻 <「創造」「法成寺物語」「お才と巳之助」「獨探」「神童」「鬼の面」他>
第四巻 <「恐怖時代」「亡友」「人魚の嘆き」「魔術師」「既婚者と離婚者」「鶯姫」「異端者の悲しみ」他>
第五巻 <「女人神聖」「仮装会の後」「少年の脅迫」「前科者」「人面疽」「金と銀」「白昼鬼語」他>
第六巻 <「嘆きの門」「西湖の月」「富美子の足」「或る少年の怯れ」「秋風」「天鵞絨の夢」他>
第七巻 <「途上」「検閲官」「鮫人」「蘇東坡」「月の囁き」「鶴悷」「AとBの話」他>
第八巻「愛すればこそ」「青い花」「永遠の偶像」「彼女の夫」「お國と五平」「本牧夜話」「白狐の湯」「アヱ゛・マリア」他

谷崎潤一郎作品の二次創作
『悪魔』『続悪魔』の二次創作
『鶯姫』の二次創作
『無明と愛染』の二次創作
『神童』の二次創作

谷崎潤一郎小事典
谷崎潤一郎歳時記
谷崎潤一郎作品に出てくる作家・本
谷崎潤一郎作品に出てくる食べ物

沼正三のスクビズム
『手帖』第三章「愛の馬東西談」~アリストテレスの馬
『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子
『手帖』第二八章「性的隷属の王侯たち」

沼正三の白人崇拝
沼正三の白人崇拝(1)―英伊混血女性との文通

『ある夢想家の手帖から』全章ミニレビュー
第1巻「金髪のドミナ」
第2巻「家畜への変身」
第3巻「おまる幻想」
第4巻「奴隷の歓喜」
第5巻「女性上位願望」
第6巻「黒女皇」

家畜人ヤプー図鑑
プキー

沼正三小事典
『ある夢想家の手帖から』に紹介されている文献
『ある夢想家の手帖から』に紹介されている映画
沼正三の谷崎潤一郎論

戦後の風俗小説
大和勇「金髪少女クララさま」「金髪パーティ」

外国文学
ドミナの言葉遣い―佐藤春夫訳「毛皮を著たヴィーナス」

ネット小説の感想
あらたなる神々の創生―キム・イルケ「韓日ヤプー秘史―国辱マゾヒスティックワンダーランド」感想

新和洋ドミナ曼荼羅
ギリシア神話の女神
ギリシア神話の美女
ヘブライ神話の美女
敗者のトラウマ~戦後日本のジャクリーン崇拝
アルペンスキーの美人選手
イスラエルのアイェレット・シャクド法務大臣の大イスラエル主義
韓国系アメリカ人写真家チョン・ユナの昭和天皇生首アート

その他創作物
文豪対話篇
天国の沼正三
青春の思い出
美男美女賛美論
続・美男美女賛美論
片瀬海岸物語
3月11日
マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために
続・マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために~白昼夢大作戦
女神キャロラインの降臨
・父の車で 1/3 2/3 3/3

H家の人々
プレイボーイクラブ
【詩集ノート】 ※常時追加

その他感想記事
Fetish★Fairyさん新作の感想
中村佑介表紙画の『谷崎潤一郎 マゾヒズム小説集』
月蝕歌劇団公演「沼正三/家畜人ヤプー」の感想
エムサイズさん「椅子になった勇者」の感想
マゾヒズムというドグマ―エムサイズ「超私立!女の子様学園」
「家畜人ヤプー」の二次創作

雑記
今後の編集方針について
HNの由来と作家:白野勝利氏
私のマゾ遍歴
倉田卓次元裁判官死去
伝説のネット批評家:kagamiさんのマゾヒズム論

掲載情報
「女神の愛」第3号
「女神の愛」第4号

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タグ : マゾヒズム小説 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー 白人崇拝

谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー 第七巻

谷崎潤一郎全集の全作品につき、ミニレビューをつけてご紹介しています。
使用している全集は、中央公論社昭和五十六年初版発行のものです。

マゾヒストにとって特に性的な刺激の強い作品については、チャートを設け、①スクビズム(下への願望)、②トリオリズム(三者関係)、③アルビニズム(白人崇拝)の三大要素につき、3点満点で、どれだけ刺激が強いかを表示します。また、その作品にどのような嗜好のマゾヒズムが登場するのかを、「属性」として表示します。

三大要素についてはこちらをご参照ください。



途上
初出:大正九年一月号「改造」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正期)
舞台設定
東京・新橋、日本橋
登場人物
湯川勝太郎
安藤一郎(探偵)
久満子(湯川の妻)
筆子(湯川の先妻)

江戸川乱歩が日本の探偵小説の濫觴と称賛した作品。
病弱な妻の死亡リスクを少しずつ高めて、死に追い込んでいく湯川の陰湿な手口を、新橋から日本橋までの途上を歩きながら探偵:安藤が暴いていきます。

前年に発表した「呪われた戯曲」「或る少年の怯れ」と同じく、新しい女のために妻を殺す男の物語。
「呪われた戯曲」のレビューでも書きましたが、本作も紛れもなく、谷崎の、妻:千代に対する露骨な「殺意」を臆面もなく堂々と表明した作品です。
千代の妹:せい子に夢中になった谷崎は、とにかく千代が殺したいほど邪魔邪魔でしかたない。
でも、いくら小説家でも離縁の前にそれを作品にはしないですよね、なかなか。
谷崎は読者にとってはいい意味で、しかし周囲の人にとっては非常に悪い意味で異常なサイコパスで、特にこの時期はその傾向が顕著で、本巻にはその自覚をテーマにしている作品も複数収録されています。


検閲官
初出:大正九年一月号「大正日日新聞」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正期)
登場人物
検閲官
K(作家)

大正8年、邦枝完二を舞台監督とする「創作劇場」が「恋を知る頃」の上演を考えますが、警視庁保安課から上演許可が下りず、上演は断念されました。
本作はその出来事に対する怒りを込めた反論。
検閲官と作家が上演禁止をめぐって論争するという形で展開します。
作品内では問題になっている脚本のタイトルが「初恋」、おきんがお才、伸太郎が信太郎に変わっています。
本作は反論の形でありながら、谷崎が自らの作品の意図を解説するという貴重な資料となりました。

「色情も芸術の材料にはなります。さうして其れが材料となつた場合には、その作品が与へる芸術的感興と云ふものも、色情を通しての感興でなければなりません。」
「私の方では、此の信太郎と云ふ少年が、恋する女の為に甘んじて殺されるところが主眼なのです。」
「僕の云ふのは、殺されて始めて此の少年の命は救はれる、――と云ふんです。此の少年は善人ですから、懲されるよりは救われなければなりません」
「信太郎と云う主人公が、十一二歳の子供でありながら召し使ひの女に恋する、その女には別に思い合つた男があつて、その男とぐるになつて信太郎を殺して家の財産を横領しようと企てゝ居る、それを知りつゝその女の手に甘んじて殺される、――殺されるのが何よりも嬉しい、――此の少年の心の中に燃えて居るものは、此の世の中の理屈では解釈の出来ないものです。(中略)一途に或る物に憧れて居る心持ち、死んでも猶なお憧れて已やまない心持ち」
「国家の為めや人類の為めに命を捨てられるほどえらい人はめつたにありません。(中略)若し凡人に、永遠の命――不朽の魂が存在することを刹那的にでも知らせるものがあるとすれば、それはたゞ恋愛の力だけです。」
「一度でもほんたうの恋を経験したことがある者は、誰しも人間の心の奥には肉欲以外の精神の快楽があることを、無窮の生命の泉があることを疑ふものはないからです。淫欲が激しく起これば起こるほど、その淫欲の蔭に却つて高潔なインスピレーションが湧き上がるのを覚えるからです。」




鮫人こうじん
初出:大正九年一月号‐十月号「中央公論」
形式:長編小説
時代設定:現代
舞台設定
服部の下宿(松葉町;現在の台東区松が谷)
浅草公園六区
梧桐の家(浅草諏訪町の河岸通り;現在の台東区駒形)
上海
登場人物
服部

南の父
林真珠
まゆずみかおる
梧桐ごとう寛治
総子ふさこ(梧桐夫人)
水木金之助(金公、パックさん)
井口昌吉
垂水清六
汪氏
林瑤娟
瑤娟の父

スクビズム★☆☆
トリオリズム☆☆☆
アルビニズム☆☆☆
属性美少女崇拝、悪女


前編のみで未完に終わったミステリーの大作。
鮫人こうじんとは、中国の人魚です。

1914年(大正3年)からはじまった第一次世界大戦が長期化し、その影響で日本は好景気に沸き、本格的な産業革命が進行しました。
東京にも近代的インフラが整備され、景観も大きくかわったようです。
まだまだ江戸時代の景観が残る明治19年に日本橋に生まれた谷崎には、この景観変化に我慢がならなかったようです。
そんななか、谷崎が東京のなかに辛うじて「美」を見いだした場所が浅草公園六区の歓楽街でした。
乱雑と混沌の街:浅草に谷崎は、大正7年に旅行した中国と共通するものを見いだします。
本作はその浅草の景観・風俗をふんだんに盛り込んだ意欲的なミステリー。

老若男女を問わず人を夢中にさせてしまう魔性の美少女:林真珠を中心に、浅草と上海で生まれた二つの「謎」に、魅力的なキャラクターたちが巻き込まれていきます。

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大正時代の浅草公園六区
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映画「浅草の灯」より、笠智衆と高峰三枝子


蘇東坡―或は「湖上の詩人」―
初出:大正九年八月号「改造」
形式:戯曲
時代設定:宋代(十一世紀)
舞台設定
杭州
登場人物
蘇東坡
毛澤民
朝雲
群芳

宋代の大文人:蘇軾の風流と仁徳を称賛する人情劇。


月の囁き
初出:大正十年一月号‐四月号「現代」
形式:映画劇
時代設定:現代
舞台設定
お茶の水
塩原温泉郷
山内家(麹町)
登場人物
野本章吉
山内綾子
池田輝男
綾子の母
藤子(綾子の姉)
原田

スクビズム★☆☆
トリオリズム☆☆☆
アルビニズム☆☆☆
属性女に殺される


谷崎は映画愛が高じてついにこの年、大正活映という映画会社の脚本部顧問となり、「アマチュア倶楽部」という映画の制作に関ります。
本作も大正活映で製作される予定でしたが、実現しませんでした。
心中するつもりで許婚を絞殺してしまい、心を病んだヒロイン:綾子の妖しい魅力を、映画的に映し出します。



初出:大正十年三月号「改造」
形式:短編小説
舞台:一高の寄宿舎

一人称語りでありながら、なんと「私」自身が犯人であるという内省的なミステリー。


不幸な母の話
初出:大正十年三月号「中央公論」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正期)
舞台設定
自宅(新橋?)
小田原市国府津
登場人物



藤子(兄の妻)

船の座礁事故に際して生まれた母子の不信がテーマ。
後述するように、この時期に多数書かれた「善悪」の問題に取り組んだ作品のひとつ。


鶴悷かくれい
初出:大正十年七月号「中央公論」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正期)
舞台設定
その町(小田原?)
登場人物


靖之助
しず子
照子
支那の女

「覗き見」から始まるミステリー。
中国に憧れ、中国に魅せられた男の異常な行動に、谷崎の中国文明崇拝が冷めやらぬことがうかがえます。


AとBの話
初出:大正十年八月号「改造」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正期)
舞台設定
不明
登場人物
A
B
Aの母
S子(Aの妻)

同じ家で兄弟のようにして育った従兄弟の善人「A」と悪人「B」。
Aは、Bを溺愛した母のためにBを善の道に導こうとし、BはAの偽善を暴こうとします。

明治43年(1910年)、武者小路実篤、志賀直哉らが「白樺」を創刊し、ヒューマニズムが大正時代の文学を席巻します。
それに呼応するかのように、谷崎はこの時期、「私」「不幸な母の話」そして本作と、「善悪」をテーマにした作品をたてつづけに発表します。
共通するのは、「悪」をしないではいられない人間がいて、よって「善」は「悪」を救えない、だから「善」はすべて「偽善」である、という非常に捻くれた理論です。
その根底には(特にこの時期の)谷崎が「自分は「悪」をしないではいられない人間」である、という認識があるようです。
「異端者の悲しみ」にも書かれたように、この「悪」とは、「自分の欲望を満たすこと」以外の事象に一切まったく価値を見いだせない、ということです。
価値を見いだせない事象の中には道徳や愛国心や規範意識だけではなく、友情、家族愛、同情、恩義、罪悪感といった感情も含みます。
サイコパスなんですね。
白樺派のヒューマニズムは、そのような意識・感情が、誰の心にも眠っている、という前提に立っている。
谷崎はそこに強い違和感を抱いたのが感じられます。


廬山日記
初出:大正十年九月号「中央公論」
原題:「廬山日誌」
形式:紀行文
中国旅行中の大正7年10月10日から12日にかけて、江西省の名山:廬山を見物した際の日記。


生まれた家
初出:大正十年九月号「改造」
形式:随筆
舞台:日本橋蠣殻町の生家

幼少期の思い出。
祖父がキリスト教に帰依したため、離れ座敷にあったマリア像(絵画)の思い出が記されています。

天を仰いで合掌して居る神々しい聖女の眸は、頑是ない当時の私にも不思議な威厳と畏れとを感じさせた。私はその像を見に行くのが好きでもあり気味悪くもあった




或る調書の一節
初出:大正十年十一月号「中央公論」
形式:短編小説
登場人物
A(取調官)
B
菊栄
お杉
Bの女房

本作も悪事をしないでいられない生来の悪人の物語。
虐待されても健気に夫を改心させようとするBの女房は、谷崎の妻:千代を想起させます。
千代もこの頃になると、北原白秋の妻の示唆もあって谷崎とせい子の関係に気づいていますが、それでも夫に従順な千代が、谷崎にはいまいましくて仕方なかったんでしょうね。
実際佐藤春夫はこの時期、谷崎が千代をステッキで打っているところを目撃しています。

タグ : 谷崎潤一郎 マゾヒズム小説 マゾヒズム 白人崇拝

谷崎潤一郎のトリオリズム(1)―『饒太郎』論~新たなる快楽の扉


告白の書 
今回は、谷崎が自分の性癖と文学の本質を洗いざらいぶちまけた、自伝的小説『饒太郎』をご紹介したいと思います。
谷崎のマゾヒズムおよびマゾヒズム文学の歴史を理解する上では、絶対に読む必要のある本当にすごい作品です。
発表は大正三年、石川千代と最初の結婚をする前の独身時代の作品で、おおまかには初期の作品といっていいでしょう。本作は、文壇デビュー直後に瞬く間に文壇的地位を確立した当時の谷崎の生活と、そこを起点に、半生を振り返り、自分の性的嗜好についての理論と実践をぶちまけている告白の書です。

主人公は、一年半ほど前から「文壇に盛名を馳せて」いる、泉饒太郎じょうたろうという名の作家です。
(余談ながら、この「泉饒太郎」という人物名は、谷崎の敬愛する文豪:泉鏡花の本名:泉鏡太郎からとられていると思われますが、鏡花をモデルにした人物ではなく、谷崎自身をモデルにした人物です。)
饒太郎の性的嗜好についてははっきりとこう書かれています。

つまり正直に簡単に打ち明けて了えば、彼は生来の完全な立派な、そうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


―即ち彼はただに異性から軽蔑される事を喜ぶのみならず、出来るだけ冷酷な残忍な取り扱いを受けて、むしろ激烈な肉体的の痛苦を与えて貰う事を、人生最大の歓楽として生きて居る人間なのである。


饒太郎は自らの性的嗜好について、「恐らくその性癖は彼の生まれない以前から、運命付けられて居たのかも知れない」と、先天性のものであることを推測しています。
饒太郎がそれを初めて自覚したのは、「まだ六つか七つの幼年時分」(当時は数え年が一般的)に、歌舞伎を観劇した際、公暁に切り殺される三代将軍源実朝を「非常に羨ましく」感じたときです。
饒太郎は学校の「腕力の弱い容貌の美しい或る友達」が公暁役になり、自分は実朝役になって切り殺される光景を想像し、次のような体験をします。

までかつて経験した事のない快感が、一種不思議な不可抗力を以って胸の奥にどよめくのを覚えた。


同好の者であれば皆覚えのあるこの感覚。
最初に自覚した年齢は人それぞれ違うでしょうが、やはりかなり幼少のときからこの快感を知っていた人が多いのではないでしょうか。
谷崎はマゾヒズムという性癖が先天性のものであると了解していたようです。

妄想の日々
饒太郎のマゾヒズムは十一、二歳になるころには、いよいよ盛んになります。

惨酷にいじめられる聯想れんそうなしには生きて行くことが出来なくなって、始終うとうとと荒唐無稽な芝居の筋書きを胸に描いては人知れず恍惚エクスタシイの境に入った。


「筋書き」とはたとえば、隣の家の「お芳っちゃん」という十四、五歳になる娘のお供をして無人島に配流され、「一生自分は忠実な奴隷となって娘の頤使いしに甘んじつゝかしずいて居る場面」だったり、「おせん」という小間使いの娘に「絞め殺されて、眼球を抉られ四肢をばくせられ、死体となってたおれて居る自分の姿を想像」したり(この妄想は戯曲の傑作「恋を知る頃」に結実します)、というものです。
饒太郎が妄想の中で崇拝したのは「身分の高い、美しい男女」であったり、逆に「下賎な人間にいじめられるほうが却って余計面白い」と感じることもありました。
後に発表される、少年時代を回想した自伝的小説「神童」と「鬼の面」では、ちょうどこのころから自慰行為の快楽に目覚め、昼夜を問わず自慰にふけったことが告白されていますから、当然これらの妄想は自慰行為を伴ったものだと考えられます。
鶏と卵のように、妄想が自慰を産み、自慰が新たな妄想を産んだことでしょう。
中学から高校、大学と進学して年を経るにつれ、饒太郎の性癖は「ますます著しく、だんだん彼の頭の働きの全部を占領するように」なっていきます。

性癖の正体―クラフト・エビングとの出会い
大学一年生のときには、饒太郎は「クラフトエビングの著作」に出会い、自分と同様の性癖を持つ人々が世界中に存在することを知ります。

此の書物の教える所に依れば、彼が今迄胸底深く隠しに隠して居た秘密な快楽を彼と同様に感じつゝある者が、世界の至る所に何千何萬人も居るのである!それ等の人々のコンフェッションや、四方の国々のprostituteの報告を読めば、彼等がどのくらい細かい点まで全然饒太郎と同じような聯想れんそうに耽り、同じような矛盾に悩まされて居るかと云う事は、怪しくもまざまざと曝露されている。


自分の性癖が自分のものだけではなく、「同好の士」が世界中にいるのだということを知ったときの感動。
現代のマゾヒストであれば相当早い段階でこれを知ることができますが、この時代にあっては、大読書人であった谷崎であったからこそ、たどり着けた真実でした。

さらに饒太郎が「クラフトエビングの著作」に出会って感動したことが二点ありました。
一つは、ルソーやボードレールがマゾヒストであったこと、ダンテ、シェークスピア、ゲーテの作品にも「著しくその傾向」があること、すなわち西洋ではマゾヒストが文豪として多く世に立ち、マゾヒスムが文学になっていることを知ったことです。

もう一点は、西洋には、マゾヒストの欲望をかなえる性産業が確立されている、ということを知ったことです。

維納ウィーンでも巴里パリでも伯林ベルリンでも欧州の著名な大都の夜の巷に色を鬻<ひさ>ぐ娼婦の間には、Boot-fetichismとかFlagellationとか、その外さまざまのMasochismに関する悪戯が、物好きな色恋の一種の形式として普通に行われて居るらしく思われる。


※Flagellationは鞭撻愛好

西洋の女性―殊にProstituteの嫖客に接する態度がいかにも活發で刺戟的で、微温的な婦人の夢想だもし難い強烈な色彩と、複雑な手段と進歩した仕組みの下に、いろいろの形式でありとあらゆる歓楽の注文に応ぜんとする露骨な気風の存する事であった。



実践と著作
ここにいたって、饒太郎の自慰用妄想は、二つの方向で饒太郎の脳内を飛び出し、外に発露していくことになります。 
一つの方向は、「著作」です。
饒太郎は自慰用妄想をそのまま小説にして文壇に挑みます。

彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分はMasochistenの藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った。


彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない


これは本当にすごいことです。
西洋においてマゾヒズムが文学になっていることを知ったといっても、それを当時の日本で理解していた人はほとんどいません。
誰にも理解されないかもしれない、奇異の目で見られるだけで終わるかもしれない、弾圧の対象になるかもしれない、この国にかつて誰も通ったことのない道を「此の世に生きる術」とすることを、ここまで自信満々に決意する。
そして結果として、西洋のマゾヒズム作家の誰も得たことのない地位を日本の文壇に築いてしまった。
こんなすごい人が「先輩」であり、「祖」であることを、本当に誇りに思います。

もう一つの方向は、「実践」です。
饒太郎は妄想と自慰だけでは飽き足らなくなります。

何とかして一度はその想像を実際に経験してみたい。美しい婦人の手に依ってならば、どのような残忍な苦悩を享けても、あるいは人知れず殺されてしまっても差支えないから、一生のうちに一度此の肉体を虐げて貰いたい。


という希望を抑えきれず、ついに妄想を実践に移していきます。
谷崎は徹底的な実践派のマゾヒストです。
饒太郎がは著作と実践の関係についてこう言います。

おれのほんとうの創作は著述よりも実生活にあるのだ。己の芸術家たる所以ゆえんは、己のライフ其の物に存して居るのだ。


小説の上でその美を想像するよりも、生活にいてその美の実態を味わう方が、彼にとって余計有意味な仕事となって居る。


とあるように、谷崎にとって実践は著作のための手段ではなく目的であり、著作はその実践の記録するために生まれた副次的なものに過ぎません。
青春時代は「妄想」と「自慰」が鶏と卵となっていたのですが、作家となってからは、「実践」と「著作」が鶏と卵となり、果てのない連鎖を引き起こしていきます。

しかし当時の日本において、この「実践」は容易ではありません。
西洋のようにマゾヒストの願望を理解する「Prostitute」(娼婦)のいない東京において饒太郎は、さまざまな階級の娼婦に、余分な金を与えて頼んでみますが、「そんな恐ろしい事は出来ない」と言われ、応じてもらえません。

「どうぞ私をひどい目に遇わせて下さい。蹴ろうとなぐろうとふん縛ろうと勝手にして、死ぬような目に遇わせて下さい。」
酔いに紛れて彼は屢々しばしばそんな事を頼んで見たが、可笑しがったり気味悪がったりして真に受ける者は一人もなく


そこで饒太郎はこう考えます。

自分の気に適った女を捜し出して、次第々々に豪胆な、残忍な性質を具備するように教育するのが一番捷径しょうけいである。


この「自分好みのドミナを育成する」という発想は、谷崎の実践の基本姿勢で、これが後に「捨てられる迄」を経て大傑作長編「痴人の愛」に結実します。

若く美しい富豪の未亡人:蘭子と懇意になった饒太郎は、蘭子を理想のドミナに育成しようと試みます。
饒太郎は道化のようにペコペコと卑屈な態度をとり、自分を卑下して蘭子を賛美し、貞淑だった蘭子が次第に増長していくのを待ちました。
しかし蘭子は、ピストルで饒太郎を脅したり、平手で顔を叩いたりするまでには変化しますが、饒太郎に惚れてしまったがゆえに、それ以上饒太郎を虐待することが出来ません。
「男は女を愛し敬い、女は男を虐げ卑しめる」関係を望む饒太郎は、蘭子に愛想をつかせてしまいます。

理想のドミナ
饒太郎は友人の待合(売春斡旋業者):松村から、おぬいという娘を紹介されます。
お縫が実は相当に素行の不良な少女だと知って興味を抱いた饒太郎は、お縫を一目見ると激しく心を惹かれ、松村に大金を収めてお縫を愛人にします。
デートをしてもなかなか心を開かないお縫に対して饒太郎は、蘭子にしたような時間をかけた育成を断念し、「相手が仮面を脱ぐのを待つ迄もなく、此方から進んで、自分が憐れむべきMasochistenであると云う秘密を了解させ、邪悪なる妖婦の本領を自分の前に発揮するように頼んでみる」事を決意します。
蘭子のように打ち解けた関係を形成してしまってからでは、相手の女は自分を虐待するのが難しくなると考えたのです。
饒太郎は自分のパトロンである富豪に借りている邸宅の西洋館にお縫を連れ込み、一気に決意を実行に移します。

「どうぞお願いだから、僕をお前の乾分こぶんのように取り扱っておくれ。乾分で悪ければ奴隷でもいゝ。飼い犬でもいゝ。餌食でもいゝ。」
「たとえばこゝに麻縄と鞭があるね。一番僕を赤裸にして、此の麻縄でふん縛って、鞭でピシピシ打って貰いたいんだ。ねえ、唯其れだけで五拾円にもなるんだから、何でもない事だろう。」
「今となればもう何も彼も白状するが、僕は性来、女に可愛がられるよりも、いじめられるのを楽しみにする人間なんだ。
お前のような若い美しい女たちに、打たれたり蹴られたり欺されたりするのが、何よりも嬉しい。出来るだけ残忍な、半死半生な目に遇わされて、血だらけになって、うなったり悶えたりさせてくれれば、世の中にこれ程有り難い事はないんだ。」


饒太郎の懇願を黙って聞いていたお縫は金を受け取ると、「そんなら裸におなんなさいまし」と命じ、要求どおり饒太郎を麻縄で俯きに縛り上げてしまいます。
それを仰向けにするときも、「足で蹴返してくれゝばたくさんだ」という要求のとおりにし、饒太郎の用意していた麻薬を嗅がせて気絶させ、それを放置して出て行ってしまいます。
お縫はまさしく饒太郎が捜し求めていたドミナでした。
その後は毎日西洋館で鞭や鎖を使うのも厭わず饒太郎の要求をかなえていき、対価としてさんざん金を巻き上げていきます。

お金があるうちだけは、奴隷にでも何でもして上げてよ。それから後は知らないけれども。


といいのけるお縫は、まさしく理想のドミナです。
お縫と一致する不良少女の娼婦は、本作とほぼ同時期の出来事を別の側面から回想した「異端者の悲しみ」にも登場しますから、谷崎が実際に探し当てたドミナがモデルになっているものと思われます。

スクビズムの楽園
西洋館には饒太郎とお縫以外には女中や使用人も含めて立ち入ることがありません。
「何かが始まる時には、必ず四方の窓掛けが下がって、扉の錠が卸されるので、外から様子は解らない」状態になります。
この西洋館は、外部から物理的に隔絶されて、外の社会とはまったく異なった秩序が形成され、マゾヒストの願望を思うさまにかなえられる夢空間となります。
『少年』の塙の屋敷や、『富美子の足』の七里ガ浜の別荘と同じ、「スクビズムの楽園」です。
この楽園の中で行われていた「何か」の内容は、詳らかに描写はしてくれていませんが、マゾヒストのみなさんであれば容易に、またそれぞれの好みに合わせて想像することができるでしょう。
作品ではそれをかすかに示唆する記述がなされています。

突然室内から不思議な音響……ぴしり、ぴしり、と、あたかも鞭でなぐって居るような音響が洩れる事に気が付いた。すると翌日また一人が、ちゃりん、ちゃりんと鎖を引き擦るような響きがして、同時に床板をどたんばたんと激しく何者かゞ転がり廻って居る音を聞いた。


饒太郎はお縫のような理想のドミナをそう何度も得ることは難しいことを悟っていため、「今度のような快楽は一生に一度の快楽である」と考えて夢中になってお縫との行為にのめりこみます。

マゾヒストは快楽の追求者です。
妄想と自慰、そして実践。
マゾヒスト向けの風俗産業のない時代・国に生まれた饒太郎は、自らドミナを求めて蘭子を育て、それに飽き足らなくなるとお縫を得てついに理想の状況を手にしました。
饒太郎がたどり着いたスクビズムの楽園。
これはマゾヒスト・饒太郎の到達点のはずです。
しかし、一度理想を手にしてしまうと、しだいにそれでは飽き足らなくなってきてしまうのがマゾヒストです。
手にした理想を失いたいという願望、更なる深みへ落ちて行きたいという願望が、しだいに生まれていきます。

饒太郎は、お縫との行為を邪魔するあらゆるものを遮断する理想の楽園たる西洋館へ、自ら「侵入者」を迎えることで、新たなる快楽の地平への扉を開いてしまいます。

新たなる快楽の扉
饒太郎には、庄司という美しい青年の友人がいました。
庄司は最初、饒太郎に憧れて弟子を志願してきたのですが、庄司の美貌が気に入った饒太郎は、弟子ではなく友人として庄司と付き合うことにします。
庄司はある大きな料理屋の息子で、相当に裕福です。
そして偶然にも、お縫はかつて庄司の家で奉公しており、そのころお縫と庄司は恋仲だったのです。
お縫は庄司の家で盗みを働き、追い出されて松村に引き取られていたのでした。
饒太郎と関係を持つようになって、自由と金を手にしたお縫は、庄司とよりを戻そうと手紙を出します。
饒太郎の前で庄司によって暴露にされたその手紙の内容が、たまらなく刺激的です。

わたくしは毎日毎日邸の西洋館へ這入り込んで一日その男の相手を勤めて居ります。
明後日も午後の一時から夕方の六時ごろまで其処へ参りますから、帰りに是非是非お目にかゝりとう存じます。
(中略)
この男は少し気違いじみた人間で何でもわたくしの云うなり次第になるんです。
お金でも着物でも、寄こせと云えばいくらでも寄越すのです。
一日でも顔を見せてやらないと、すぐにわたくしの所まで迎いに来るくらい夢中になって居ります。
此の泉と云う人はほんとに奇妙な男でございます。
何でもわたくしにひどい目に遇わして貰えば其れが嬉しいそうで、毎日毎日たゞわたくしに打たれたり蹴られたりして喜んで居ります。
それ故わたくしは此の人にどんな無理な事でも命令することが出来るのでございます。

…ですから此の男に麻酔を嗅がせて眠らせて置けば、毎日でもあなたとゆっくり御話をする時間がございます。
…今に此の人は私のために裸になって了うかも知れません。
…若旦那様、私がこんな悪魔になって了った事をお許し下さいまし。
(中略)
もう此の頃は毎日毎晩、あなたのお美しい、絵のようなお顔が眼の前にちらちらして居りますのよ。


いやはや…すごいですね。
すごい。
私はこのお縫が庄司に宛てた恋文の中に、トリオリズムの快楽の真髄のすべてが見事に書き込まれていると思います。
一つは、饒太郎の感情が完全に100%お縫に向かっているのに、お縫の感情は完全に100%庄司に向かっている、この「感情の一方通行」。
二つ目は、同性である庄司と饒太郎のお縫から見た男性的魅力=人間としての価値の圧倒的な差をダイレクトに味わわされること、すなわち「美尊醜卑」のヒエラルキーを痛感させられることです。
三つ目は集団心理による加害行為の過激化です。
生来性悪で残忍なお縫ですが、饒太郎の性癖を庄司に暴露して庄司という仲間を自分の側に加えることで、集団心理を得て、饒太郎と一対一の状況よりも饒太郎に対する加害行為の精神的ハードルが下がっていることがうかがえます。
どんな世界でも3人いればイジメが成立しうるのと同じです。
強者たるお縫にさらに多数者としての増長が加わり、弱者たる饒太郎はさらに少数者としての惨めさを味わうことになるのです。
四つ目には、饒太郎を庄司との逢瀬に利用しようする「手段化」です。
金銭のみを媒介にした隷属関係とトリオリズムが非常によくマッチする(谷崎作品にはこれが非常に多いです)のは、貨幣が人類が生み出したすべての「目的」を実現しうる究極の「手段」だからです。

このお縫の手紙は、あえてドミナの側の視点から見ることで、トリオリズムの快楽の真髄を非常に官能的に詰め込んだ見事な一節ですね。

さて、饒太郎は手紙の暴露を受けて、自分とお縫の二人だけで築き上げてきたスクビズムの楽園である西洋館へ、庄司を誘い込みます。
このときの心理描写に、トリオリズムという新たなる快楽の地平への扉を開けんとする瞬間の、マゾヒストらしい「落ちていく悦び」が見事に表現されています。

青年が強者の形を備えれば備える程、彼はますますMasochismの原則に従って壓倒あっとうされる事を喜ぶように傾き始めたのである。
(中略)
饒太郎は青年を案内して西洋館へ這入って行った。
彼の胸の中には、或る新しい楽しみが密かに計劃けいかくされて居た。



そして物語は、最も美しいクライマックスへと展開します。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつも通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。
我にかえった一二分間、しきりにぱちぱちと眼を瞬いて居たが、やがてぱっちりと瞳を据えると、殆ど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。
あの青年と娘が睦じそうにソオファへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。
(中略)
娘は面白そうに笑った。
「庄司君、僕は毎日斯う云う目に会わされて居るんだよ。どうだい、僕の気違いだと云うことが解ったかい。」
(中略)
「君とお縫のためならば、どんなに侮辱されても平気なもんだ。だから其の代り、二人とも僕を捨てないでくれ給え。僕は君たちの奴隷となって使って貰えれば結構なんだから。」


この構図!
スクビズムとトリオリズムの見事なミックス。
上位者と下位者のコンポジション。
谷崎の最も得意とする描写です。
上位者の顔と下位者の顔の位置関係、その隔絶を辛うじて媒介するかのような上位者の足。
着衣の上位者と全裸の下位者。
完全に自由な上位者と完全に自由を奪われた(委ねた)下位者。
短い描写で見事に表現していますね。
本当に官能的で美しいです。

谷崎のマゾヒスムは、常に西洋崇拝とトリオリズムとともにあります。
一度新しい快楽の扉を開けてしまった者は、なかなか元の部屋に戻っては来れません。
本作は谷崎が自身の性癖を余すとことなくぶちまける中で、トリオリズムという快楽の扉を開けた瞬間のあの恐ろしく、それでいて包み込まれるような衝動を、見事に表現した作品です。
繰り返しになりますが、必読中の必読です。

タグ : 谷崎潤一郎 マゾヒズム小説 三者関係 寝取られ

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