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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎のスクビズム(4)―『神童』『鬼の面』論~自慰と妄想の青春


「書生」とセルヴィリズム
かつて日本には、「書生」という階級の人たちがいました。
他人の家に下宿して、家事や雑務を手伝いつつ学校に通って勉強していた若者を、「書生」といいました。
住居を提供したのはたいてい上流階級の人々です。当時上流階級の家にはたいてい「女中」が雇われ、家事をしていましたが、さらに「書生」を住まわせて掃除や商売上の雑務、清書等をさせることが、一種のステイタスになっていたようです。
当時高等教育を受けられるものは限られていますから、ともすると主人一家の誰よりも学識があり、官界や財界に出れば洋々たる未来が待っている書生が、ぺこぺこと頭を下げて家事奉仕をさせられている、というシチュエーション、ちょっと憧れてしまいます。

家事奉仕といえば、沼正三は、長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』第二一章「召使い願望と侍童願望」において、家内奴隷として女性の傍で仕える「召使い願望セルヴィリズム」が、マゾヒズムの「入門的段階」であるとしています。
「書生」は、召使願望者セルヴィリストとしては理想的な状況といえるでしょう。

谷崎潤一郎の書生経験
谷崎潤一郎も、書生経験があります。
谷崎潤一郎の生家は、谷崎が幼少だった頃は裕福でしたが、父が事業に失敗して次第に零落し、谷崎が東京府立第一中学校在学中には学費の負担が困難になります。
谷崎の才能を見込んでいた校長や漢文担当教師の渡辺盛衛が父親を説得し、京橋区采女町の西洋料理店「精養軒」の北村重昌の家の家庭教師の仕事を紹介し、谷崎はなんとか学業を続けられることになります。
明治三十五年六月、十五歳のときから谷崎は北村邸に寄留し、第一高等学校に進学しますが、二十歳になった明治四十年六月、北村邸に行儀見習に来ていた穂積フクとの恋愛事件が発覚し、北村邸を放逐されてしまいます。

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築地精養軒

この間の出来事と自らの心理的変化を克明に記した自伝的小説が、大正五年に相次いで発表された中編『神童』と長編『鬼の面』です。
『神童』では高等小学校一年生から始まり、中学校進学と同時に主人邸に居候を始め、中学の四年生までを、『鬼の面』では高等学校の二年生から始まり、三年生の秋に恋愛事件の発覚によって主人邸を放逐され、その年の冬までが描かれています。
この二作からは、家庭教師として住み込んだ北村邸での谷崎の扱いが実際には書生に等しいものであったこと、そのことが、それまで傲慢で尊大であった谷崎に強い屈辱を与えたこと、そしてそれが谷崎のセルヴィリズムを刺激し、マゾヒズム文学を生きる道とする決意にいたったことが伺えます。
今回はこの二作をご紹介したいと思います。

年譜と『神童』『鬼の面』の設定を比較し、表に整理してみました。
年譜『神童』『鬼の面』
本人谷崎潤一郎瀬川春之助壺井耕作
倉五郎欽三郎禄三郎
お牧お朝
兄弟弟:精二
妹:園

他に三人いるが、生まれてすぐに里子に出される。
妹:お幸妹:お春
実家の住所生家
日本橋区蛎殻町(現在の中央区日本橋芳町)
谷崎六歳のとき転居
日本橋区南茅場町(現在の中央区日本橋茅場町)
谷崎十七歳のとき転居
神田区鎌倉河岸(現在の千代田区内神田)
両国の薬研堀(現在の墨田区両国)小島町(現在の台東区小島)
父の職業活版所、米穀仲買店を経営するが、不振のため谷崎九歳のときに廃業。
証券取引所に勤務。
谷崎十七歳のときに証券取引所を辞め、下宿屋を経営。
木綿問屋の一番番頭壺井が十四歳のときに事業に失敗し、浅草区役所に勤務
住み込み先の主人北村重昌井上吉兵衛津村堅吉
住み込み先の夫人お町
(後妻)
倉子
住み込み先の子女男子二人姉:鈴子
(お町の子)
弟:玄一
(先妻の子)
兄;荘之助
妹:藍子
女中頭お久お玉
純情な女中お辰お君
恋愛事件の相手穂積フクお君
住み込み先の住所京橋区采女町(現在の中央区銀座東)小舟町
(現在の中央区日本橋小舟町)
駿河台
(現在の千代田区神田駿河台)
住み込み先の家業西洋料理店「精養軒」木綿問屋「井上商店」銀行の重役
恩師府立第一中学校校長
勝浦鞆雄
漢文教諭
渡辺盛衛
小学校の校長
担任の教諭
漢学者
澤田弘道
住み込みを始めた時期十七歳
中学校二年生
六月
十三歳
中学校進学時
四月
十四歳
中学時代
放逐された時期二十二歳
高等学校二年生
六月
二十歳
高等学校三年生
十一月
物語の期間十二歳
高等小学校一年生

十五歳
中学校四年生
十九歳
高等学校二年生の夏

二十歳
高等学校三年生の冬


学生としての谷崎潤一郎はもうそれはそれは神のように優秀でした。
『神童』の春之助も『鬼の面』の壺井も、途方もない学識を誇ります。
それゆえ、周囲の学生たちはもちろん、先生方や親までをも心の底で馬鹿にしています。
家庭では親はなんだかんだといって子を甘やかし、学校では嫉妬されるレベルを超えて尊敬を集めますから、少年はどんどん増長します。
しかし、そんな少年が、住み込んでいる主人宅ではまったくの使用人扱いなんですね。
春之助も壺井も名目は「家庭教師」なんですが、実態は「書生」。
使用人の中でも、家事に関しては女中頭の指示を受ける下っ端の扱いです。
これは少年の心に深い深い屈辱を与えますが、少年は心の中で主人一家や他の使用人たちを馬鹿にするという抵抗をしてプライドを守り、心のバランスを保ちます。
しかし、人を支配することに慣れた主人一家は、巧みにを少年を馴致し、羨望、卑屈、従順といった新しい感情をその傲慢な心を植えつけていきます。
これが、思春期の訪れとともに少年の心に大きな変化をもたらすことになります。

お町夫人の調教
『神童』の春之助を馴らしつけたのは井上夫人のお町です。
春之助は井上邸に来てお町夫人を一目見た瞬間から、その美しさに魅せられ、それまで保持していた価値観がぐらつくくらいの精神的衝撃を受けています。

それに此の婦人は、彼が此れ迄に知つて居る多くの女とは驚く程違つた、格段に濃い黒髪と、色沢のある皮膚と冴えた大きい瞳と、くつきりとした輪郭とを持つて居る。凡て女は容貌が美しいと賢さうに見えるものだが、今しも此の婦人が謹慎の態度を装つてうつむき加減に端座して居る有様は、いかにも聡明な思慮分別に富んだ、寧ろ非凡な脳髄の所有者らしく想像される。此の人が、此の妖艶な容貌の人が、自分たちと同じような日本語を語り、同じやうな表情で泣いたり笑つたりするとしたら、何だか其れがひどく不思議な現象の如く感ぜられる。


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自らをプラトンや仏陀やキリストの再来と信じ、親も教師も周りの人間全てを馬鹿にしきっていた少年が、お町を一目見た瞬間これですから、行く末が思いやられます。

お町が春之助を馴致するのに使ったのは、自らの「食べ残し」です。
幼少期は裕福だった家庭に育ち、甘やかされて育った春之助ですが、井上邸の食卓の豪華さに圧倒されます。
しかし、使用人扱いの春之助には、主人一家と同じものが供されないのはもちろん、質量ともに粗末な食事しか与えられず、実家にいたときよりもはるかにひもじい思いをさせられます。
春之助に飢餓感と、主人一家の食卓への羨望を植えつけたところで、お町は自分の食事や間食の「食べ残し」を春之助に与えます。
春之助は憧れの夫人が口をつけた、憧れの高級な食べ物を与えられ、残飯を供されている屈辱も忘れて浅ましく「奥様のお余り」を貪り食います。

或る日お久が「此のアイスクリイムは奥様のお余りだから頂いて御覧なさい。」と云って、寄越してくれたコツプの中のねつとりとした流動物を何の気なしに一と匙すくつて舐めて見ると、さながら舌がとろけるやうな、びっくりする程の甘さであつた。或る時は又「此れも奥様のお余り」だと云う食ひ残りの茶碗蒸しを夕飯の膳に供せられた。


彼は「奥様のお余り」を貰ふことが何より楽しくなつてしまつた。晩飯の時刻になれば心私かにお余りの下るのを待ち設けて、たまたまあてが外れるとひどく物足りない気持ちになつた。


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文字通りの「餓鬼扱い」ですね。
沼正三は、長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』で、捕虜時代に、水分を与えられずに極限まで渇いたところで英軍司令官夫人の尿を与えられたときの強烈な体験を記していますが、お町夫人の調教も、それに近いものを感じてしまいます。
人を支配することに慣れた人というのは、どうすれば人の心を支配できるか、内心密かに抵抗する気持ちをも摘み取ってしまえるか、よく知っているんですね。

こうして尊大だった春之助の自尊心は押しつぶされ、完全に婦人の忠僕となってしまいます。

夫人に取って容易たやす些細ささいな心づけが、春之助にはどんなに嬉しくも有難くも感ぜられたことであろう。
「瀬川、此れをお前さんに上げるから取つてお置きよ。」
かう云つて、夫人が象牙のやうな美しい手を伸べて、自ら春之助のてのひらへ温情のこもつた恵み品物を載せてれる度毎たびごとに、彼は我知らず勿体もつたいなさに胸の時めくのを覚えた。


此の夫人の為めならばどんな悪事でも働きかねないやうな、浅ましい了見が彼の胸の中にむらむらと萌すことさへあつた。



沼正三は、子が母を慕うように、ひたすら純粋にドミナを慕う気持ちを、セルヴィリズムと特別に区別して侍童願望パジズムと呼んでいます。
余計なことを考えず、四六時中寝ても覚めても一人のドミナを慕い、侍っていたい。
ピュアでプラトニックな初恋に近い感情かもしれません。
究極のマザコンである谷崎潤一郎はまた、究極の侍童願望者パジストでもあります。
十三歳で母と別れた住むことになった春之助が、美しい女主人のお町を慕う気持ちこそ、典型的な、そして理想的なパジズムといっていいでしょう。

令嬢藍子の調教
『鬼の面』の壺井は、物語が始まった時点で既に、主人の津村邸に住み込んでから五年近くが経過していますから、かなり卑屈な根性が備わってしまっています。
そんな壺井の下僕根性を利用し、さらに育てるのが令嬢の藍子です。
藍子は親に隠れて江藤という青年と交際しています。
壺井は一応藍子を監督指導する家庭教師であり、秘密交際などは諌めなければいけない立場なのですが、美しい藍子と逞しい江藤という両家の令息令嬢同士似合いのカップルの交際を黙認してしまいます。
それをいいことに藍子は、江藤との恋文の投函と受け取りを壺井に依頼します。差出人を偽って書いても、何度も手紙を往復するうちに互いの家の者に気づかれてしまうのを恐れるためです。

或る朝、壺井が登校の時間に邸の門を出て二三町行くと、後からこつこつと小さな靴の踵を鳴らしつゝ藍子が追い付いて、
「壺井さん」
と、声をかけた。彼女も丁度学校へ行くところであつた。
「ちょいと壺井さんにお頼みがあるの。済まないけれど此の手紙をあなたの名前で名宛を書いて、今日のお午までに出してくれない?成る可く此の近所の郵便箱へ入れないで本郷から出して貰ひたいの。」
彼女は息せき切つて早口に斯う云ひながら、手に持つて居る四角な封筒を壺井の胸へ押しつけた。
「はあ、よござんす、畏まりました。


「それから、佐藤四郎と云ふ名前で、壺井さんに宛てゝ返事が来るかも知れないから、さうしたら封を切らずに私に寄越しておくんなさい。」
さう云った時、藍子は始めてにこにこと笑ひかけたが、壺井はますます事務的な句調で、
は、承知しました。
と、鞠躬如きっきゅうじょとして命令を聞き取つた。


「第三者との恋文の受け渡しを命じる」というテーマは、トリオリストの「西の横綱」レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』で、ヒロインのワンダが主人公のセヴェリンに、「ギリシア人」宛の手紙を届けさせる場面が有名ですね。
トリオリストの「東の横綱」谷崎潤一郎もこれが大大大好きで、本作の他にも、『恋を知る頃』『少将滋幹の母』にも同様の場面が出てきます。
ただ、同じような行為でも、『毛皮を着たヴィーナス 』で行われているものと、谷崎作品で行われているものには、大きな違いがあると私は考えています…が、それはまた別の記事で論じたいと思います。

自意識の目覚めと女性美への憧れ
『神童』の春之助は、十五歳になったとき、縁日でを購入します。
鏡は自意識の象徴と言われます。
自らの精神的な優越を自尊心の拠り所としていた春之助は、毎日鏡を眺め、自らの肉体の醜さに思い悩むことになります。

彼は自分の容貌がいかに醜いかと云う事を、最近まで気が付かずに居たのである。また、醜い容貌を持つて生まれた人間が、いかに恥づべく憐れむべきかを、此の頃になつて始めて痛切に感じ出したのである。


そして、自らの醜さと対照的な女性の美しさへの憧れを、日に日に強くしていきます。
春之助が芸者上がりのお町夫人の使いで、芸者街へ行った際の感慨です。

さう云う空気と情調の中に朝夕を送つて居るうら若い婦人共の研きに研いた明眸皓歯めいぼうこうしをまざまざと見せられる時、春之助は自分の身の上を獣の如く卑しみ疎んじた。等しく此の世に人間として生を受けながら、彼等と自分とは何故斯くまで違ふのであらう。にきびは愚か一点の汚れのない、瑠璃るりのやうに滑らかな肌の色と云ひ、水の如く柔らかな絹物の衣裳の下から、なよなよと匂ひこぼれる手足の肉の婀娜あだつぽさと云ひ、彼等の体の到るところに溢れ輝く「美」の表現の豊かさを眺めれば、さながら美しい一篇の詩を読むやうな夢心地へ引き入れられる。まことに彼等の肉体は生きた詩であり、生きた宝玉であつた。それだのに春之助の姿はまあどうであらう。彼と彼等とは肉体を形成する物質の組成と成分が根底から異なつているらしかつた。神が彼らを造るのに宇宙の面に浮き上がる清澄な精気を以つて固めたとすれば、春之助の体は底によどんだ糞土を以つて造られたのではあるまいかといぶかしまれた。


あの少女等は美しきが故に大人と等しいすべての享楽を与えられて居る。奢侈しゃしも生意気も恋も虚言も、「美しきが故に」彼等は実行の特権を持つて居る。彼等の手管に欺かれるのは欺かれる者の愚かである。彼等の恋に惑溺わくできするのは溺れる者の罪である。「あらゆる悪事が美貌の女に許されなければならない。」―――春之助は自然とさう云ふ考へに導かれて行つた。


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そしてさらには、自分にとって雲の上のような存在の美少女たちと、対等に交際する資格を有する逞しく美しい青年達への羨望が心に芽生え、膨らんでいきます。
『鬼の面』の壺井が、学友を仰ぎ見るときの嘆息です。

壺井は自ら顧みて皰だらけな醜怪しゅうかい極まる己の容貌に想到する時、自分は到底、恋愛を語る資格のない宿命を持つて生まれたのかと、そゞろに遣るせない悔恨かいこんの情に駆られるのであつた。令嬢だの芸者だのと対等に暖かい睦言むつごとを交し得る僚友の身の上を、彼は唯天上に住む別種の人間の特権として、遥かに仰ぎ見て居るより仕方がなかつた。


藍子の恋人江藤の肉体を覗き見た時の感想です。

贅沢な家に育てられて、贅沢な生活をして来た人は、裸体になっても其の品格を包むことは出来ない。―――壺井は青年の姿を見ると、なぜだかそんな事を思つた。筋骨の秀でた、体幹の大きい、労働者のやうな頑丈な体格を持つて居ながら、その青年の四肢の格好には何処となくすつきりとした、典雅な曲線がなだらかに波打つて居る。藍子は仕合はせな相手を見付けたものである。


当ブログの谷崎潤一郎序論(1)~(3)でさんざん強調した「美尊醜卑」「美男美女賛美論」の世界観が、こうして出来上がっていったのです。

自慰と妄想の青春
『鬼の面』の壺井はある日、一念発起し、書物を捨てて外に出かけて体を動かして遊び、人と交際し、自分も恋愛に挑戦してみようと決意します。
今でいう「リア充」を目指したわけです。
しかし、そんな壺井の心から、こんな囁きが聞こえてきます。

お前のやうな男には、此の遊園地の仲間入りをさせる訳には行かないのだ。お前はお前の部屋に戻つて、自分独りで勝手なことをするがいゝ。お前はお前独特の秘密な慰みがあるだらう。楽しい習慣を持つて居るだらう。お前はお前の大好きな妄想の波に溺れ沈んで、やがて自滅する人間なのだ。


なんという悲しい卑屈さなんでしょう…。
結局壺井は海岸で戯れている藍子と江藤を覗き見て、そのまぶしさに圧倒されて、すごすごと自分の部屋に帰ってしまいます。
それにしても「独特の秘密な慰み」「楽しい習慣」ってなんなんでしょうか。
答えはちゃんと書いてあります。

忌まはしい夜の習慣は、彼が唯一の慰みとなつて、殆ど凶暴に近いほど激しくなつた。彼は我から廃滅を喜ぶが如く、命限り根限りその慰みに魂を浸らせた。娘のお君を始めとして、藍子や倉子やお玉の幻が、交わる交わる彼の頭脳と肉体を腐りただらせた。


この「習慣」については『神童』にも青春期の重大事としてしっかり書かれています。

生まれて始めて、ふとした機会から彼が其の罪悪の楽しさを味はつたのは、一年以上も前のことであつた。程なく彼は其れが道徳上の罪悪である事を悟り、浅ましい所業である事をも察した。さうして、其れが生理的にも如何程いかほど戦慄すべき害毒をもたらすかを感付いた頃には、もはや牢乎ろうことして動かし難い習慣となつて居たのであつた。彼は無意識の間にお町夫人の容色を恋い慕い、令嬢鈴子の肉体に憧れた。芳町の新路へ使ひにやられて、芸者や半玉の姿を見て来た晩などは、殊更ことさら幻の悪戯に悩まされ、餌を嗅ぎつけた野獣のやうに悶え廻つた。どうかすると彼は昼間でも便所へ這入つて三十分ぐらゐは顔を見せない事さえあつた。


そうです。「習慣」とは、オナニーのことなのです。
沼正三は『手帖』の中で「マゾヒストは例外なくオナニストであ」ると断言していますが、谷崎潤一郎もやっぱりオナニーの快楽を知っていたんですね。
ここでは「誰を妄想していたか」は書いていますが、「どんな妄想をしていたか」はあえて書いていません。
しかし、そんなことは、幼少期からマゾヒスティックな妄想をしていたと告白している『饒太郎』を持ち出すまでもなく、明らかですね。
…それにしても、これの作品が発表された大正五年といえば谷崎はすでに文壇に地位を確立し、妻子もいる立場。よくぞここまで書きますね…。

恋愛事件
『鬼の面』には、一般に谷崎潤一郎の「初恋」と言われている穂積フクとの恋愛事件の事も描かれています。
しかし、その記述は意外なほどに淡白なものです。
壺井は津村邸を短期間で出て行った女中のお君と恋文を何通か交わし、一度だけ往来で会った、これだけです。
あれほど恋愛に憧れていた壺井ですが、いざやってみると、どうしてもお君に本気になることができません。
お君に会いに行ったときなど、お君の従姉妹の芸者の美しさに心を奪われてしまった程です。
穂積フクに対する谷崎の想いは、彼の作品中で、主人公がヒロインに対して抱く凄まじい心的傾斜とは、似ても似つかない淡白なものだったのではないか、と私は思っています。

マゾヒズム文学の誕生
青春期を書生という立場で過ごした谷崎潤一郎は、この時期に自分が「何者であるか」「何をするためにこの世に生を受けたのか」をはっきりと悟ったようです。
『神童』の最後は、ある夜春之助が布団の中で次のようなことを考える場面で終わります。

恐らくおれは霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌ふために生まれて来た男に違いない。己はいまだに自分を凡人だと思ふことは出来ぬ。己はどうしても天才を持つて居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間の美を讃え、享楽を歌えば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。


『鬼の面』の壺井も物語終盤に次のように悟ります。

彼等は壺井程深刻に痛烈に、女性を渇仰かつごうし要求しては居ないのである。壺井程完全に女の肉体美を認めて、それに己の全生命を浸し漬けて、惑溺わくできし得る勇気感受性はないのである。
「自分にはたしかにそれだけの勇気と感受性とがある」
と、壺井は念を押すやうに腹の中で云つて見た。


こうして、谷崎潤一郎は、自らの性癖の生み出す妄想を物語に紡ぎ出すことを、生涯の生業とすることを決意したのです。
この自身と勇気。ちょっと考えられません。既にマゾヒズムが認知され、それに関する様々な創作物の市場が確立されている現代とは訳が違います。
さらにすごいのが、誰も通ったことのない道を切り開いた開拓者でありながら、以後誰も超える事の出来ない実績を作ってしまったことです。
世界的にはザッヘル=マゾッホのほうが名は知られているかもしれませんが、文学的な評価は谷崎潤一郎とは比較になりません。
世界最高のマゾヒズム文豪を生んだ国に生まれ、彼の作品を母国語で読める。この幸せを、改めて感じずにはいられません。

谷崎潤一郎のスクビズム(3)―『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第二一章「召使い願望と侍童願望」では、性科学者ヒルシェフェルトの説として、マゾヒズトが「何になりたいと欲するか」について、五類型が紹介されています。
さらに、それらは、「成熟した社会人たる男性」から、それぞれ「地位」、「年齢」、「男性」、「人間性」、「生命」等の属性を剥奪したものだとしています。
すなわち下記のとおりです。

(イ)セルヴェリズム(奴隷願望)地位の剥奪
(ロ)小児化倒錯年齢の剥奪
(ハ)変装(女性化)倒錯男性の剥奪
(ニ)畜化倒錯人間性の剥奪
(ホ)物化倒錯生命の剥奪

これらの類型は、第一三三章で示される「スクビズム」の五類型のうち、第五類型である「観念的下位」を、さらに分類したもの、と言えそうです。
いずれの変身願望も、崇拝する女性よりも劣位でありたいという「下への衝動」の発露と言えます。

一方、少し視点を変えると、これらの変身願望は、「成熟した社会人たる男性」として生きていくことに疲れた心が、戦場の最前線のようなストレスから解放されたいと願った、現実逃避願望とも言えそうです。
組織のため、家族のため、金のため、あるいはただただ生きるため、毎日毎日神経をすり減らせて戦う。
そして、戦えば戦うほど、守るべきものが増えて「責任」という重荷を背負わされる。
右へ行くのか左へ行くのか、一分一秒ごとに迫られる煩わしい「決断」。
心には脆くて壊れやすいくせにどんどん肥大化していく「自尊心」。
頭には錆のように蓄積して柔軟性をなくしていく「こだわり」。
視野はどんどん狭くなり、目の前に続くいつ果てるともない道しか見えなくなります。
嫌だ。もう嫌だ。辛い。怖い。全て捨てたい、投げ出したい、逃げたい、行きたくない、寝ていたい、でもどうしよう、決めたくない、考えたくもない、見たくない、聞きたくない、忘れたい。……こう思ってしまったことがない、といえる人は、果たしているのでしょうか。

この現実逃避願望が、各種の変身願望へと発露します。すなわち、
(イ)「決断」する重圧から逃れたくなった者は、自らの意思ではなく、頭上から下される「命令」にのみ従って生きる奴隷を志向します。
(ロ)欲望を抑えて秩序に従うことに嫌気が差した者は、欲望のままに生きていた子供に戻ることを志向します。
(ハ)男性としての「強さ」を求められることに耐えられなくなった者は、むしろ(特に前時代においては)「か弱さ」を売りにできる女性に転じることを志向します。
(ニ)人間としての尊厳すら疎ましくなった者は畜化(愛玩動物への変身)を志向します。
(ホ)そして、生きることさえ放棄したくなった者は、物化(家具への変身)を志向します。

しかし、これらの変身願望も、迷子や、棄て犬や、路傍の石になりたいわけじゃない。
独りぼっちで堕ちていくのはやっぱり寂しいし心細いんですね。
現実の人間関係から逃げ出しているのに、哀しいかな「それでも人しか愛せない」んですね。
いつも心の中で憧れていた、愛しい、美しい女性の足下へと堕ちていく。だからこそ、安心して全てを捨てられるんですね。
ここに、単に性衝動だけでは説明できない、あの全身が脱力していくような、柔らかくて甘い快楽が生まれるんですね。
マゾヒズムは近代人にとっての「究極の癒し」である、と、私は考えます。

さて、谷崎潤一郎作品はというと、見事に全ての類型を網羅しています。
谷崎のスクビズム(1)で扱った『少年』では、(ハ)女性化願望を除き、全ての類型が現れます。(『少年』にはスクビズムの五類型からも第三類型を除く全ての類型が現れます。そういう意味でも本当にすごい作品です。)
スクビズム(2)で扱った『富美子の足』では、(ロ)小児化倒錯と(ハ)畜化倒錯が現れていました。

今回は、(イ)セルヴェリズム(奴隷願望)、(ロ)小児化倒錯、(ハ)女性化倒錯が顕著に現れる、大正三年『捨てられる迄』をご紹介します。

『捨てられる迄』の主人公は、山本幸吉という文筆家です。
もういうまでもなく、谷崎本人の化身です。
ヒロインは、植田三千子。病院を経営する医学士の令嬢で、年齢は幸吉の一つ年下の二十三歳。
三千子の描写を少し引用します。

女は都下の一流の芸妓げいぎと比べてもヒケを取らない程、すつきりした容姿と端正な瓜実うりざね顔とを持って居る。丈が高く、手足が西洋人のやうに長く、筋肉が充分に引き緊まって、見るから健康らしい体格である。○○女学校を卒業して、会話の間に気の利いた英語の名詞を挿むぐらゐの、間に合はせな智識を用意して居る。さうして、中流の家庭の令嬢として、得意のCoquetryを行う間にも相当の品威を保つ事を怠らない。


ことに彼の女のあの魅力あるまなざし―――一体幸吉は、円い眼よりも細い眼の方に余計惹き付けられたが、―――或る時は長い睫毛まつげの陰にぼんやりと眠って居るやうな、或る時は油断のならぬ陰険な計画をめぐらして居るやうな、或る時は人を人とも思はぬ驕慢な睥睨へいげいを湛えて居るやうな、針の如く閃々せんせんと輝く細い眼の光に相到すると、彼は二度と再び此のやうなあつらえ向きの女に出遭ふ機会はあるまいと思われた。


彼の女は火鉢の縁に両手をかざしつゝ、自分の指の、長く美しい、ろうのやうな光澤を喜ぶ如く、幾度も拳を固めたり伸ばしたりした。其の手はしなやかであると同時に、いかにも健康らしい血色を持っ居た。


彼は面と向つて話をしながら、始終彼の女の容貌から来る快感が、泉のやうに頭の中へ湧き出づるのを禁じ得なかつた。彼の舌がいろいろの言葉を喋舌しゃべつて居る間に、彼の視覚はいつも彼の女の唇や、まなじりや、頬の曲線の、刹那せつな刹那の限りなき変化の上にさまよって居た。


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ことごとく美しい谷崎作品のヒロインの中でも、最も怜悧な美しさを感じるのが三千子ですね。
もう最初から全てを見通しているような、相手の心も全て見透かしているような、「全知の女神」の幻想を与えてくれるヒロインです。
この人になら全てを委ねてもいいと思える、「癒しの女神」としても、谷崎作品中ナンバーワンではないでしょうか。(別の意味で全てを委ねたくなるむちゃくちゃ残忍なヒロインは多いですが。)

舞台は東京。季節は冬。
洗練されたひんやりとした雰囲気が、三千子の美しさとよくマッチしています。

物語は一言で言うと、「三千子が幸吉を、恋人から奴隷に馴致していく物語」です、はい。

幸吉は最初、三千子に対していろいろな意地を張るんです。
で、幸吉はこれを恋の駆け引きのようなものだと思ってやってるんですが、(後でわかることなんですが、)既に何人もの男を手玉に取ってきた三千子にとっては、これは滑稽な子供の駄々なんですね。
三千子にはもう幸吉が自分の虜になっている事がよくわかっている。
だから余裕で幸吉に駄々をこねさせておいて、少しづつ、やさしく幸吉の心を剥いていくんですね。

たとえば、物語の冒頭。
銀座でデートするんですが、幸吉は五時半には既に約束の場所で待っているんですね。
約束の時間は六時。ですが、三千子が来たのは八時。年末の寒空の下ですよ。
三千子は一応言い訳をしますが、謝りもしません。
でも、幸吉は怒ることもできずに「僕も差し支へがあつて、あなたより少し前にやつて来たんです。」なんて意地を張って負け惜しみをいうんですね。
もう既に、「大人の男」というよりも、母親を待ちわびた子供、主人を待ち続けた忠犬、という感じですね。
おそらくはこれも、三千子が幸吉の忠誠をテストしたんでしょう。
幸吉の嘘も、三千子は当然見透かしていると思われます。

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幸吉はこのデートの後、早くも三千子に対する卑屈な感情が芽生えます。

「ほんたうの意味に於いて、自分の方が強者である。自分はいつ何時でも、一挙手の労で男を膝下にひざまずかせる事が出来る。」――彼の女はさう信じてしまったに違いない。


三千子はその後さらに十日間ほど幸吉を放置します。幸吉を不安のどん底に突き落としたところで、家に呼びつけます。そこでもまた強がりを言い立てる幸吉をなだめすかし、子ども扱いにします。

気のせゐか、男には女の唇に皮肉な微笑が泛かんで居るように感ぜられた。背中をたヽいてむづがる子供を欺すような慰撫と軽蔑とを、頭から注ぎかけられる心地がした。


「成る程あなたの眼から見れば、幼稚なだゞッ児のやうに見えるかも知れません。けれども来年は二十五になるのだから、満更子供ではない積りですよ。だからあんまり子ども扱いにしてもらいたくないです。」
「あたしがいつ子ども扱ひにして?あたしの方があなたより一つ歳下ぢゃありませんか。」
かう云って、彼の女はにやりと笑った。いかにも得意さうに、「勿論もちろん子ども扱いにして居ます。」と云はんばかりににやりと笑った。


ここで、杉村という医学生が登場します。
この杉村の兄と三千子はかつて同棲していましたが、その後杉村の兄は病死しています。
この杉村の兄と三千子が真実どんな関係だったのか、というのは、今ひとつ明らかにされていません。これを想像するのもすごく面白いのですが、ちょっと今回は省略します。
杉村はその時から、兄と三千子の家に居候していました。三千子は杉村をどう扱っているんでしょうか。

彼の女は其の時分から、あによめの権威を振り廻して、杉村を書生のやうに使役したのかも知れない。兎に角彼の女の杉村に対する我がままな、暴君的タイラニカルな、侮辱し切った態度は、酔つて居る結果とばかりは思はれない。これ程激しくないまでも、恐らく平生から斯う云ふ風な習慣にしつけたものと推せられる。さうして、少くとも彼の女の方では、此の青年の親切を、道徳的観念から割り出された行為とは認めて居ないらしい。多分彼の女の解釈は正当であるかも知れないが、……


三千子は杉村を召使として使役するところを、幸吉に見せ付けます。
案の定、幸吉は召使願望を刺激され、杉村を羨やみ、妬みます。

彼の女は今、明らかに杉村を軽蔑して居る。けれどもそれは冷淡や憎悪から来る軽蔑ではない。寧ろ彼の女は杉村を自己の装飾品として愛用している。彼を傀儡かいらいの如く弄ぶ事に異常な得意と誇りを感じている。彼の女のやうな虚栄心の強い、浮気な、悧巧振った女には、此の装飾品は可なり必要である。杉村よりも更に従順な、更に卑屈な、更に愛すべき青年が出て来ない限り、彼の女は容易に此の装飾品を捨てる事が出来ない。


彼の女はやがて、恋人を作ることを止めて、忠実な奴隷を思ふがまヽに使役する興味を専一にするかも知れない。さうなつた時、杉村と云ふ装飾品は、一転して欠く可からざる日用品となるのである。彼の女は杉村を弄ばずには、一日も生活することが出来なくなるのである。斯くして遂に、此の女王と奴隷はシツカリ結び着いて、二人とも凡人の夢想し難い幸福に生きるであらう。


このゆさぶりによって、幸吉はもはや意地を張り続けることができなくなり、完全に三千子に屈服してしまいます。

「あなたは僕に対してどんなにでもえらくなれます。にも、悪魔にも、暴君にもなれます。あなたと別れると云ふ考へが、僕には既に死ぬよりも悲しい事になつて了つたんです。」
彼は、長い間喋舌つて居るうちに、いつしか口を極めて相手を賛美して居た。彼は己の弱点をさらけ出して、彼の女に対する偽りのない自分の感情を、正直に、寧ろ誇張的に懺悔ざんげし始めた。傲慢ごうまんな罪人が良心の呵責かしゃくに堪へかねて今しも神前に平伏する如く、彼は珍しくも女の膝下に跪いて、始めて哀れな、打ち負けた、嘆願たんがん的な態度を示した。
「三千子さん、僕は今迄あなたに向かつて強い事ばかり云つて居ました。『強者』の仮面を被って居ました。しかしあれはみんなウソです。負け惜しみです。其の実あなたにどんな事をされても、僕は怒る事もどうする事も出来やしないんです。ほんたうの弱者なんです、だから僕を可哀さうだと思って下さい!」
此の言葉と共に、彼は今日までの心の苦痛が快く流れ去るやうに感じた。此の言葉と共に、二人の地位は今日から転倒して、彼は自分に相当する弱者の椅子に就く事を覚悟した。
彼は小さな意地を捨てヽ真実の哀れな姿のまヽに、自分の命を女の掌中しょうちゅうに委ねようとするのであつた。彼はにわかに安心した。同時に女は、無情の権威と崇厳と美容をそなえて彼の眼に映つた。其の指先の一片ひとひらの爪、生え際の一本の毛の貴さにも、自分の肉体のすべてをなげうつ価値を認めた。


彼は自分の身を卑しくすればする程、いよいよ相手の美に打たれる事を知つた。
女は男の言葉を少しも疑わないらしかつた。却つてさうなるのが当然だと云ふ風に、黙って笑ひながら其の男の顔を視詰めて居た。


はぁー…なんという快楽でしょうか…。
大人の男としての意地を捨て、美しい女性の足下に跪き、全てを委ねる…。
今まで築いたいびつに肥大化した「自分」が崩壊していき、子供に還っていく…。
この快楽が見事に描かれた名場面です。

こうして完全に三千子に屈服してしまった幸吉に、眠っていた女性化願望が発露します。

彼は恋人に体現せられた女性の美しさを渇望する余り、いつの間にかその美を模倣するやうに馴らされて来た。


彼の霊魂と肉体とは、彼の女に接近する毎に美しい感化を受けて、だんだん異性的色彩を帯び始めた。性の倒錯とうさく―――そんな現象が、彼の全部を改造して行く様に覚えた。


其の世界に於いて、彼は先ず恋人に女王の宝冠を捧げた。さうして、其の宝冠に適しい絶対の権力と威厳と、勇気と、品位とを具備するやうに彼の女を導いた。


現代人の欲望を束縛して居るいろいろの桎梏しっこく、―――習慣や、常識や、礼法や、儀式や、窮屈な社会の制約を、彼の女は次第に二人の世界から剥ぎ取って行つた。少なくとも幸吉に対する時、ようやく彼の女は柔弱な怯懦きょうだな女性の類型から遠ざかつて自然のまヽの、雄大な素朴な、原始的性格を閃めかすやうになつた。幸吉が女らしくなればなる程、彼の女はだんだん非女性的になった。


なんということでしょう…
谷崎にとっては自然的な秩序とは、「美尊醜卑」の秩序。
美しいものが強い。醜いものは弱い。
だから醜いものは美しいものに跪き、平伏し、従い、庇護を求め、憧れ、畏れ、敬い、崇拝し、模倣する。
これが本来の自然的なあり方なんですね。
男は強く、逞しく、女はか弱く、女に従う、なんていう秩序は、所詮人間社会が作ってしまった不自然な、人工的な秩序なんですね。
必要なものであったとしても、不自然なものは、人間に無理をきたすんですね。
維持していくのは辛い。自然な秩序に身を委ねてしまった方が、断然気持ちいいんですね。

幸吉は三千子の前では、言葉遣いや動作が完全に女性化します。

「―――そんならあたし、もう帰るわ。」
「三千子さん、待つて……」
男はあわてヽ袂を捕らえたが、彼の女は其の手を邪険に振り払って立ち上がつた。それでも幸吉は執念深く追ひすがつて、今度は両手で裾のまはりにからみ着いた。さうして、相手の鼻息をうかがふやうに、おづおづと美しい立ち姿を見上げた。



幸吉を屈服させた三千子は、なお容赦なく幸吉の奴隷化を完成させます。

女は男を完全に絶対に征服して、忠実な自分の奴隷として了しまはなければ承知しなかった。どんな重大な、又どんな軽微な事柄でも、一々自分の言葉通りに動くやうに男をしつけた。何処どこまで男が自分の命令を遵奉じゅんぽうするか、それを試してみたいやうな好奇心に襲われて、たびたび意地の悪いたわむれをした。



この後、三千子は自分に心底惚れている二人の男、幸吉と杉村を、互いに嫉妬させ、自分への忠誠を競わせるというゲームを楽しみます。(ツルゲーネフの『はつ恋』のヒロイン:ジナイーダ嬢もこの遊びが大好きで、彼女はこれを「人間のぶつけ合い」と呼んでいます。)
谷崎は本当に様々なトリオリズムの形態を描きますが、この、「男性二人(あるいはもっと多数)とも劣位」という形態も大好きです。

幸吉の前で殊更杉村と仲良くして、嫉妬に燃ゆる男の泣き顔を眺める事が、彼の女には最も愉快な遊びらしかつた。


「杉村さん、あしたの晩二人で帝劇へ行きませうね。」
彼の女にこんな事を云はれると、「おどかし」とは知りながら、嫂や杉村の前をもはばからず、幸吉はすぐに涙ぐんだ。
「山本さんも、此の頃はすつかり三千ちやんに頭が上がらないのね。」
と、嫂は嘲るやうに云つた。
「あたしは山本さんを泣かすのが名人よ。ほら、ほら御覧なさい。もうそろそろ涙が一杯溜まつて来たわ。」
かう云って彼の女は幸吉の顔を指さしたりした。
男は自分の醜態を意識しながら、其れを制することが出来なかつた。彼の女の為めに自分が此れ程白痴になり、盲目になり得たかと思へば其れが楽しくてならなかつた。



こんなくだりもありますよ。
幸吉が三千子の身に着けているもの預からせてほしいとねだったところ、三千子は幸吉に指輪を預けるんですが、その際、指輪は肌身離さず持ち歩くこと、それは誰にも見せないことを厳命するんですね。
幸吉はもちろんそれを忠実に守るんですが、三千子はそれをも使って幸吉を嬲って遊びます。

或る日の事であった。彼の女は幸吉を前に置いて、そ知らぬ風で二三分杉村と話をした挙句、
「杉村さん、あたし此の頃千里眼になつたのよ。」
と云つた。
「さうですか。そんなら僕の懐に何があるかあてヽ見ませんか。」
と、杉村が云った。
「それが、あたしを何とか思って居る人の物でなくつちゃ中らないの。あなたはあたしを嫌って居るから駄目よ。」
かう云って彼の女はぢろりと幸吉を見ながら、
「山本さんはあたしを思って居てくれるわね。―――あなたの懐にあるものを云ひますから、中つたらどんな物でも此処へ出さなくつちゃいけなくてよ。」
幸吉はギョツとして僅かに頷いた。
「あなたの懐の紙入れの中に、たしか女の指輪が入って居る筈よ。それを此処へ出して頂戴な。」
「そんなものありません。………」
彼は俯向うつむいて、小さな声で云った。
「ない筈はなくつてよ。―――それともほんとにないのなら、あなたは此の間の約束を反故にしたのね。いヽわ、なんあらあたしにも考えがあるから。」
「だつて外の人には誰にも見せるなツて約束なんですもの。」
「何でもいヽから、あたしが出せと云ったら出したら宣かないの。それとも云う事を聞かない積りなの。
「それぢゃ又あとで返して下さいな。」
「まあ兎に角出すのよ。」
彼の女はわなヽく男の掌から、光る物を指先に摘んだ。さうして、
「ちょいと此れをあなたに借して上げませうね。」
かう云つて、杉村の右の中指を捕へて、其れを揉み下ろすようにしたが、大柄な彼の女の指輪は、男の手にも比較的楽にまつた。
「随分あなたの指は太ござんすね。」
「杉村さんに丁度いヽわ。暫く貸して上げませうか。」
「えヽどうぞ願います。」
杉村は冗談のように云つたが、それでも嬉しさうな色が見えた。
ぽたり、と、涙が幸吉の膝に落ちた。見る見る彼の唇は震え、眉根は戦いて恰も子供が泣き出さうとする瞬間のやうな、哀れな、意気地のない表情になつた。その歪んだ顔つきを、彼の女はにこにこ笑いながらつくづくと眺め廻した後、とうたう溜らなくなつて両手を口にあてヽ、ぷツと吹き出して了つた。



どうですか。
三千子の一歩一歩辱めのレベルを上げていく、少しずつ少しずつ心を剥いていく、ゆっくりと気持ちよく堕としていく優美な調教。
完璧だと思いますね。
これ以上の快楽がこの世にあるんだろうか、と思えるくらい、別世界の快楽をもたしてくれる、名作だと思います。

タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 捨てられる迄 調教 洗脳

谷崎潤一郎のスクビズム(2)―『富美子の足』論~やっぱり足が好き!

  ―足への執着―

マゾヒストにも様々な趣味嗜好があります。しかし、が好きでない人はなかなかいないのではないでしょうか。美しい女性の足は、舐めて良し、蹴られて良し、踏まれても良しと、非常にポピュラーな願望と直結します。沼正三も、足への執着を、スクビズムの第二類型として挙げています。

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ではなぜ、マゾヒストは足が好きなのでしょうか。それは、足が人間の肉体の中で最も下部に位置し、最も卑しいと認識されている部位だからです。

マゾヒストが対象女性の足に執着しているとき、踝より上の部位に関心がないかかというと、そうではありません。どんなに足が美しくても、顔が醜くい女性の前には決して跪きません。マゾヒストは対象女性に完全無欠の美を求めます。対象女性の顔、髪、項、胸、胴、腰、手、全てを崇拝し、その美に異常なほど執着しています。もっと近づきたい、触れたい、舐めたい…しかしそれらの部位は、あまりにも高貴過ぎて、卑しい自分が触れたり舐めたりして汚すことがためらわれます。強力に引き付ける魅力と、近づくことすら拒むような気品に、恋心は引き裂かれます。そこで、唯一卑しい自分でも接触を許される部位、それが足なのです。

マゾヒストは足を愛し、崇拝することで、対象女性の完全無欠な肉体美を実感することができます。足ですらこんなに高貴で美しく、白く清らかで、滑らかで柔らかく、甘酸っぱいいい匂いがするのだから、この人はもう全身完璧な美しさを備えた女神様なのだと。

さて、谷崎潤一郎はというと、やっぱり足が大大大大大好きです。処女作『刺青』から、晩年の『瘋癲老人日記』に至るまで、生涯にわたり、美しい足への賛辞を送り続けます。

ここではその膨大な足賛辞の中から、大正八年に発表された『富美子の足』を紹介します。これを紹介すれば、谷崎の足への執着がいかほどのものか、十分わかっていただけると思います。

  ―足を愛した老人、足に恋した青年―

『富美子の足』は野田宇之吉という美術学校の学生が「谷崎先生」に宛てた手紙で、自らの体験を語るという形式をとります。(谷崎はよほど自分を小説の中に出すのが好きなようですね。とうとう実名で登場です。)

宇之吉は、田舎から上京し、遠い親戚で、日本橋に質屋を構える塚越という老人の世話になります。その塚越の妾が富美子(ふみこ、おそらくは「踏み子」から来ている)です。芸者をしていた富美子を塚越が妾にし、家に住まわせているのです。宇之吉はすぐに富美子の美しさに夢中になってしまいます。ちなみにこのとき塚越は六十一歳、富美子は十七歳、宇之吉は十九歳です。

塚越は宇之吉に、富美子をモデルに絵を描くよう頼みます。宇之吉はポーズをとった富美子を舐めるように描写していきます。そしてその描写は、ある部位にきてクライマックスを迎えます。文庫本六ページに渡る、狂気すら感じる執拗な描写と賛辞ののごく一部を引用します。

それは云うまでもなくはだけかゝった着物の裾からこぼれて居る両脚の運動、―ちょうど脛から爪先に至る部分の曲線にあるのです。僕は一体子供の時分から若い女の整った足の形を見ることに、異様な快感を覚える性質の人間でしたから、実は疾うからお富美さんの素足の曲線の見事さに恍惚となって居たのでした。


こう云う美しいものを見せられる度毎に、僕はつくづく、造化の神が個々の人間を造るに方って甚だ不公平であることを感じます。


お富美さんの足のは「生えている」のではなく、「鏤められて居る」のだと云わなければなりません。そうです、お富美さんの足の趾は生まれながらにして一つ一つ宝石を持って居るのです。


その二つの足は、(中略)既に一つの、荘厳な建築物に対するような美観を与えます。


僕は一人の男子として生きて居るよりも、こんな美しい踵となって、お富美さんの足の裏に附くことが出来れば、其の方がどんなに幸福かしれないとさえ思いました。それでなければ、お富美さんの踵に蹈まれる畳になりたいとも思いました。僕の生命とお富美さんの踵と、この世の中で孰方が貴いかと云えば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんのの為めなら、僕は喜んで死んで見せます。


お富美さんの左の足と右の足、―こんなに似通った、こんなにも器量の揃った姉と妹が又と二人あるでしょうか?


兎に角その肌の色は、(中略)潤沢と光を含んで、象牙のように白くすべすべとして居ました。いや、実を云うと、象牙にしたってこんな神秘的な色をもっては居ないでしょう。象牙の中に若い女の温かい血を交わせたならば、或はいくらか此れに近い水々しさと神々しさとの打ち交った、不思議な色が出るのかも知れません。


異性の足に対する僕のこう云う心持ち、―美しい女の足さえ見れば、忽ち已み難い憧憬の情を起して、それを神の如くに崇拝しようとする不可思議な心理作用、―この作用は、幼い時分から僕の胸の奥に潜んで居ました。



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「○○(ヒロイン)のためなら喜んで死にます」「○○が死ねと言えば死にます」といった表現を谷崎はよく使います。究極の崇拝・服従の表明ですが、ここではその対象がヒロイン自身からその足に差し替わっています。

宇之吉は、塚越も異性の足の美しさに執着する性癖であり、富美子の足にその究極を見出していることを悟ります。老人と青年は、毎日富美子の足を愛で、その美を語り合う夢のような日々を過ごします。

物語の舞台は、前半は日本橋の塚越家、後半は塚越の体調の悪化により七里ガ浜の別荘に移動しますが、いずれも外界から遮断されたインドアの空間で、塚越、宇之吉、富美子の他にいるのは小間使いだけです。二人の男の欲望を邪魔するものはなく、外の世界とはまったく異なる秩序が構築されていきます。『少年』に描かれた「塙の屋敷」のような快楽の世界、「スクビズムの楽園」が、ここにも誕生します。ちょっと覗いてみましょう。

こゝにいる三人のうち、隠居の年が六十一、僕の年が十九、お富美さんは(中略)十七で一番若いのですが、ものの云いようから判断すると、ちょうどその順序が逆であるかのように思われました。お富美さんの前へ出ると、隠居も僕も等しく子ども扱いにされてしまう気がするのです。


お富美さんの足を眺めては隠居と二人で賛美の言葉を交換しつゝ時を過ごすのです。隠居の病癖をよく呑み込んで居るらしいお富美さんは、退屈なモデルの役を勤めながら、(中略)二人の言葉を聞き流して居ました。モデルと云っても(中略)気違いじみた老人と青年の四つ目から浴びせられる惚れ惚れとした視線(中略)の的となって、崇拝されるためのモデルなのです。


彼は前から密閉した部屋の中でその縁台にお富美さんを腰かけさせ、自分は犬の真似をして彼女の足にじゃれ着いた事があるのだそうです。お富美さんから旦那としての取り扱いを受けるよりも、そう云う真似をする方が遙かに愉快を感ずるのだと、隠居は云いました。


あんまり隠居が苛立って来ると、お富美さんはいつも斯う云って怒鳴りつけました。彼女に怒鳴り付けられると、ちょうど蛞蝓が塩を打っかけられた如く、老人は(中略)大人しくなります。


例の竹の縁台を自分の枕元へ持ち出させて、それへお富美さんを腰かけさせて、僕に犬の真似をさせながら、その光景をじっと眺めて居るのでした。(中略)…あの、お富美さんの足が僕の顔の上を踏んでくれた時の心持ち―あの時僕は、(中略)たしかに幸福だと思いました。


「お富美や、後生だからお前の足で、私の額の上を暫くの間踏んで居ておくれ。」(中略)」するとお富美さんは(中略)芋虫でも踏んづけた時のように苦り切った顔つきをして、(中略)病人の青褪めた顔へ、その柔らかな足の裏を黙って載せてやるのです


それでもお富美さんが、例えば牛乳だとかソップだとか云うようなものを、綿の切れか何かへ湿して、足の趾の股に挟んで、そのまゝ口の端へ持って行ってやると、病人はそれを貪るが如くいつ迄もいつ迄も舐って居ました。



富美子と塚越老人の関係は、母と幼児の関係のようにも見ます。塚越の衰弱が進行するにつれ、赤ん坊に戻っていくようです。『少年』は、始めから無邪気な子供たちの世界でしたが、閉鎖された空間で大人の男(自己)が尊厳を脱ぎ棄て、幼児退行していく展開も、谷崎作品によく表れるパターンです。そこでは対象女性は、幼児にとっての絶対者、に見立てられます。

現実社会で大人として生きていくことは、辛いことばかりです。欲望を抑えて秩序に従い、人目を気にしてプライドを保つ。好きでもない人と付き合い、嫌いでもない人と争う。いつからこうなってしまい、いつまでこんなことが続くのか。欲望のままに生きていた子供時代に戻りたい。誰でもそう思ってしまうことがあると思います。近代化と戦争に明け暮れた谷崎の時代の日本にも、そのように思う人はたくさんいたではないでしょうか。幼児退行は、そんな大人として生きることに疲れた心が求めた願望なのだと私は考えています。

  ―仰ぎ見る、頭上遥かに足の持主―

冒頭から述べているように、マゾヒストがなぜ足に執着するかとえば、身体的下部に当たる足に執着することで遙かに貴い対象女性自身が実感できるからです。二本の足を神とする塚越と宇之吉の「スクビズムの楽園」についても、足の持主富美子自身を意識しなければ、十分に味わったとはいえません。

富美子にとっては、日本橋の塚越家と七里ガ浜の別荘での日々はどのようなものだったのでしょうか。それは、塚越の病状が悪化してからの富美子の態度を見ればわかります。

買い物に行くにしてはお化粧や身なりに恐ろしく念を入れて、ぷいと出て行ってしまうのです。(中略)隠居が死ぬと程なく彼女は少なからぬ遺産を手に入れて、舊俳優のTと結婚しましたが、恐らくあの時分から人目を忍んで其の男に会って居たのでしょう。


搾り取るだけのものは搾り取ってしまったし、(中略)老人の死ぬのを待ち切れずにそろそろ本性を露わして来たのでした。



でました、トリオリズムです!ここで富美子の恋人をちらつかせるとは、谷崎はやはり筋金入りのトリオリストだと思わざるを得ません。

日本橋の塚越家と七里ガ浜の別荘での日々。それは二人の男の夢の楽園でしたが、富美子にとっては、塚越の財産を手に入れ、恋人と新たな生活をするための準備期間に過ぎなかったようです。酷い性悪と考えることもできましょうが、そもそも、富美子の体はすべて富美子が心に決めた恋人に捧げられるべきものなのだから、屍のような老人に足とはいえ触れさせてやって、無上の喜びを与えている富美子はむしろ慈悲深い女性と考えるべきでしょう。塚越の家の財産は、当然の報酬として彼女に与えられなければなりません。

私はこの物語から、次のようなダイナミックな神話をイメージしました。

老人と青年は、白く美しい二本の足を神と崇めています。二人にとってそこは、長年夢見ていた楽園でした。その足の持主は、遥か頭上から楽園を見下ろしています。彼女はただ、使い捨ての足置き台に足を置いていたにすぎませんでしたが、自分の足を熱心に崇めている二人を見て、しばらくそのまま足を置いてやることにしました。彼女の隣には美しい恋人がいて、仲良く睦んでいます。そのうちに彼女は、足の下の世界のことなど忘れてしまい、足置きから足を離してしまいました。老人は夢見心地のままこの世を去りました。青年は、楽園から足が去った後も、その残香を貪りながら、楽園のことを手紙にしたためました。

谷崎の足へ執着は、単に足の美しさを愛でているのではなく、踝より上に君臨する偉大な存在=美しい女性自身へ遥かな憧憬と結びついている典型的なスクビズムであると私は考えています。


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タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝 富美子の足

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