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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー 第二巻

谷崎潤一郎全集の全作品につき、ミニレビューをつけてご紹介しています。
使用している全集は、中央公論社昭和五十六年初版発行のものです。

マゾヒストにとって特に性的な刺激の強い作品については、チャートを儲け、①スクビズム(下への願望)、②トリオリズム(三者関係)、③アルビニズム(白人崇拝)の三大要素につき、3点満点で、どれだけ刺激が強いかを表示します。また、その作品にどのような嗜好のマゾヒズムが登場するのかを、「属性」として表示します。

三大要素についてはこちらをご参照ください。



恐怖
初出:大正二年一月「大阪毎日新聞」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定:京都
神経衰弱と徴兵検査の経験を元にしたもの。
なお、徴兵検査は無事、不合格となっています。


少年の記憶
初出:大正二年四月「大阪毎日新聞」
形式:短編小説
時代設定:明治二十年代
舞台設定:谷崎の生家(日本橋蛎殻町)他
少年期の他愛のない思い出を綴ったもの。


恋を知る頃
初出:大正二年五月号「中央公論」
形式:戯曲
時代設定:明治二十年頃
舞台設定
待合香川(一種の売春斡旋所、浅草代地)
下総屋(日本橋馬喰町)
登場人物
伸太郎
おきん
利三郎
伸太郎・おきんの父:下総屋三右衛門
おきんの母:おすみ(三右衛門の妾)
伸太郎の母:お政(三右衛門の正妻)
伸太郎の乳母:おしげ
スクビズム★★★
トリオリズム★★★
アルビニズム☆☆☆
属性男児と年上の少女、侍童願望(お使い)、悪女、足、血、殺人、死体陵辱、人間椅子、カップルへの奉仕、カップルの幸福の犠牲になる

これは「過激度」でいえば谷崎作品の中でもベスト5には入る作品。超危険です。
個人的にも大好きな作品。
ポイントは二つ。

一つは、十二三歳の少年、伸太郎の、異母姉:おきんに対するあまりにも純粋な思慕と、自分が幸福を掴むために伸太郎を殺害するおきんの冷酷さ、この見事な対比です。
思春期にさしかかる直前の少年が、ハイティーンの美少女を見上げ、密かに憧れる気持ち。男にとって最初の絶対者である母がなんだか疎ましくなり、代わりに心を支配する若く美しい新たな絶対者。この初恋の純粋な想いが、あらゆる人間の感情の中で一番美しいものかもしれません。
伸太郎は、おきんが恋人の利三郎と共謀して、自分を殺そうと計画していることを知っているんですね。どの時点で知ったかは定かではないんですが、殺される前までには確実に知っている。それでもなお変わらずおきんを慕って、「僕はお前が死ねと云へば、何時でも死ぬよ。」なんて言うんですね。「いじらしい」なんてレベルじゃありません。
一方のおきんは、そんな弟の気持ちを知っていながら、淡々と殺害を計画し実行します。そこには、愛情や同情はおろか、憎悪も、加虐願望サディズムもないんですね。ただ、妾の娘である自分が下総屋の令嬢として扱われ、利三郎と幸せになる、そのためには正妻の子である弟が邪魔だから殺すだけなんですね。落ちている物をどかす、積もっている埃を吹き払うような感覚です。おきんにとっては伸太郎はプラスの感情もマイナスの感情もない、まったく無価値の「物」なですね。
この完全に完璧な感情のワンサイド・ゲーム。危険なほどに美しい片恋物語です。

もう一つのポイントは、上位者のカップルが睦んでいる最中に下位者が下から奉仕する、トリオリスムとスクビズムの絶妙なミックスです。これをやらせたら谷崎の右に出るものは絶対にいません。
三つの場面を紹介します。
①おきんが利三郎と「内緒話」をしている最中、怪我をして出血したおきんの足の手当てを伸太郎がするんですね(沼正三の分類で言えば、スクビズム第二類型+第四類型)。伸太郎の切ないときめきがぐっと胸に迫ってくるような場面です。さて、このとき、おきんと利三郎は何の話をしているんでしょうか?どう考えても、足元に跪いている少年の殺害計画を話し合っているとしか思えない…。やばい、やばすぎる…。
②おきんが伸太郎に、利三郎へ手紙を渡す「お使い」を命じ、それを受け取った利三郎は、折り返しおきんへの返事を届けるようにまた伸太郎に命じます(スクビズム第五類型)。おきんと利三郎が日常的に伸太郎を侍童として使っていることがうかがわれる場面です。「ラブレターを届けさせる」というアイデアは、ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』にも登場しますよね。さて、このとき、手紙には何が書いてあったんでしょうか?どう考えても、手紙を運ばせた少年の殺害計画が書いてあるんですね。やばいでしょう、やばすぎるでしょう…。
③最後の場面。おきんと利三郎が伸太郎を殺害した後、死体を行李こうり(旅行鞄のようなもの)に詰めるんですが、その後、ほっと一息ついて行李の上に二人して座るんですね(スクビズム第一類型)。おきんは利三郎に寄り添って、「こんな悪事をしたからには、一生私を見捨てないでおくれ。」なんていって甘えるんです。…もう何もいえません。
三つの場面に共通するんですが、おきんと利三郎が伸太郎の人格、尊厳を徹底的に無視しているんですね。最後の場面も、あえて死体を陵辱しようという意図はない。ただ、腰を掛けるのに行李がちょうどよかったから腰掛けた、本当にただの椅子なんですね。ここにこそ、戦慄するほどの切ない快楽を感じます。

それにしても、こんなやばい戯曲、上演されたことがあるんでしょうか…。


熱風に吹かれて
初出:大正二年九月号「中央公論」
形式:中編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
京都・先斗町ぽんとちょう
春江の家(神田同朋町)
小田原早川の宿
大田原の家(築地本願寺近辺)
登場人物
玉置輝雄
梅龍
春江
齋藤
英子
小田原早川の人々(藤田夫妻、鈴木夫妻、末松)
スクビズム★★☆
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性逆ハーレム、愚弄、巨女、寝取られ

主な舞台は海を目前にした小田原早川の宿。季節は夏。めずらしく健康的な強い日差しの下で繰り広げられる物語です。
この小田原早川の宿に、駆け落ちした齋藤と英子のカップルが暮らしているんですが、美しくて天真爛漫な英子の周りには、いつも彼女の崇拝者ファンが取り巻いているんですね。その輪の中に、主人公の輝雄が加わるんですが、この構図はおそらくツルゲーネフの『はつ恋』をモチーフにしてるんじゃないかと思います。『はつ恋』のジナイーダ・アレクサンドロヴナ・ゼセーキナ公爵令嬢、みなさん大好きだと思いますが(分かってますよ、私には)、本作の大田原英子嬢も、それに負けず、自分に媚びる崇拝者ファンたちをみくびって玩具にして無邪気に遊ぶ、夏の太陽のような魅力的なヒロインです。
ちょっとだけ引用します。

「ふん、驚いたわねえ。」と、英子は首を縮めて、あごの下へてのひらを持ってきて、よだれを受けるような真似をした。此れは彼の女が人を冷やかす時に、よく用いる癖であった。


さて、本作の結末は輝雄が齋藤から英子を奪い、結婚の約束を取り付けたところで終わっています。
…しかし、この後、英子が齋藤ときっぱり別れて、輝雄と結婚して幸せに暮らしました…となるんでしょうか。どうも私にはそうは思えない。小田原早川の宿で、英子と齋藤が夜な夜なしていた相談、これが怪しいんだよなぁ。それから輝雄に齋藤から英子を奪うようにけしかけた末松。こいつも怪しい。だいたいなんで最後、齋藤を捨てると決めたはずの英子があんなに急いで小田原早川の宿に戻る必要があったのか。なんか怪しい。もしかして英子と齋藤は輝雄をだまして輝雄の家の財産を手に入れようとしてるんじゃないか、末松はその手先なんじゃないか、と勘ぐってしまいます。
そう勘ぐりたくなるような、こんな伏線も張ってあるんですね。
輝雄がいよいよ結婚の談判に照子の家に行く時、鏡で自分の容貌を見た輝雄の感想です。

団栗どんぐりのように円い、濁った眼、ところどころに紅い斑点の出来た黄色い頬、無頼漢ごろつき染みた太い頸筋けいきん――鏡に映るすべてが、野卑で、凡庸で、到底瀟洒しょうしゃとした齋藤の美しさに及ばない事を発見したとき、彼は今更自分の肉体を呪いたい程に口惜しかった。


輝雄はここに至るまでにさんざん齋藤の頭の悪さ、生活能力のなさを馬鹿にし、「なんであんな奴が英子と」と思っているんですが、いざ、という時に、自分と齋藤との間に存在する決して越えることのできない壁に気づいてしまうんですね。確かに輝雄の家には財産もあり、将来も洋々としている。しかし、本当に英子に愛される資格があるの誰なのか。このときに輝雄自身が気づいてしまった、そんな気がしてしまうのです。


捨てられるまで
初出:大正三年一月号「中央公論」
形式:長編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
銀座
芝浦
幸吉の下宿(神田駿河台)
三千子の家(芝)
登場人物
山本幸吉
三千子
杉村
三千子の義姉
スクビズム★★★
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性女性化願望、召使願望、幼児化願望、寝取られ

本作と『熱風に吹かれて』はまるで対をなすかのようです。
舞台は夏の小田原と対照的な冬の東京。
そして太陽のようなヒロイン、英子と対照的に、本作のヒロイン三千子は月のように清らかで上品な美しさです。
本作については、作品論を書きましたので、ぜひお読みください。

谷崎のスクビズム(3)―『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽



憎念
初出:大正三年三月「いらか
形式:短編小説
時代設定:明治二十年代
舞台設定:谷崎の生家(日本橋蛎殻町)
登場人物

安太郎(丁稚)
善兵衛(手代)
これは、谷崎が少年時代を回想する非常に短い短編なんですが、谷崎のマゾヒズムを考える上で極めて重要な作品ですね。
幼い「私」は、醜い丁稚の安太郎を、ただ醜いという理由だけで、それはそれは恐ろしく陰湿な方法で虐待して楽しみ、悪びれもしません。
この作品でいう「憎しみ」「憎悪」とは、「醜いものに対する生理的嫌悪」およびそれに起因する「加虐願望」なんですね。
少し大きくなると、「私」は、新参の女中をかわいがる一方、古参の女中を虐待したりします。これはもう『恋を知る頃』の世界そのまんまです。
谷崎の価値観は徹底した「美尊醜卑」の秩序に基づいていますが、もしかしたら、「美しいものへの憧れ」よりも先に、「醜いものへの嫌悪」が先にあったのかもしれません。そのときにはまだ自己認識が未発達で、「醜いもの」といえばもっぱら安太郎のような他者だった。そのため、他者への加虐願望=サディズムが発露したのでしょう。
それがやがて思春期にさしかかり、異性の美しさと、自己の醜さを意識するようになり、自己への加虐願望=マゾヒズムへと変化していったのではないでしょうか。


春の海辺
初出:大正三年四月号「中央公論」
形式:戯曲
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定:鎌倉長谷海岸の別荘
登場人物
三枝春雄
梅子(春雄の妻)
静子(春雄の娘)
千代子(春雄の妹)
雪子(梅子の母)
吉川
スクビズム★★☆
トリオリズム★★★
アルビニズム☆☆☆
属性寝取られ(不倫)

不倫をゲームのように楽しむ梅子と吉川。妻の機嫌を損ねるのを恐れ、それを黙認する春雄。華やかな勝者と惨めな敗者の対比が見事です。春雄の梅子に対するいじらしい服従宣言を聞いてあげてください。

おれは自分の為めにお前の行動を束縛したり、干渉したりする気はないんだよ。己はお前を心の底から信用して愛して居るよ。お前に不満足を与へたり、不自由を与へたりすれば、己だってやっぱり好い気持ちはしないんだ。お前がしたいと思ふ事は何でもするがいヽ。好きな人ならいくらでも交際するがいヽ。ただ己がどのくらゐお前を愛して居るか、それさへ解ってくれヽば、別に何も云ふ事はない。
己を幸福にするのも、不仕合はせにするのも、みんなお前の心一つにあるんだ。お前は己を殺す事も生かす事も出来るんだ。


春雄の妹:千代子は、梅子の不貞を執拗に追及するんですが、上記の春雄の口上を立ち聞きして、追及をぱったりとやめてしまうんですね。この千代子の態度の変化は、せっかく自分が兄のために憤慨しているのに、あくまで妻に頭をたれる兄に呆れた、あるいは兄を見捨てた、ともとれるんですが、もしかしたら、兄の「本当の幸せ」がなんなのかを悟り、それを尊重することにした、ということなのかもしれません。


饒太郎じょうたろう
初出:大正三年九月号「中央公論」
形式:長編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
饒太郎の家(江東区深川)
信託会社(中央区八重洲)
帝国劇場(千代田区丸の内)
蔵座敷(中央区築地)
松村の待合(中央区日本橋浜町)
饒太郎の実家(台東区浅草鳥越)
登場人物
泉饒太郎
庄司
松村
蘭子
ぬい
スクビズム★★★
トリオリズム★★★
アルビニズム★☆☆
属性奴隷願望、殺人、愚弄、貴婦人崇拝、ビンタ、CFNM、緊縛、鞭、鎖、足、麻酔、放置、羞恥、悪女、財産貢ぎ、年下美男美女カップルへの奉仕、寝取られ、捨てられ、西洋崇拝

彼は生来の完全な立派な、さうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


…だそうです。「いや…知ってますけど?」って感じですよね。
こんなことも書いてますよ。

彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない。


私がこのブログで伝えたいこと、あっさり自分で書いちゃってますね。本作は本当にすごいです。絶対にこれは読んでほしい。到底ここでは語りつくせないので、いずれ近いうちに作品論を書かなければと思っています。
これは谷崎が自分のマゾヒズムをほとんど余すところなくぶちまけている告白の書です。内容は概ね「理論編」と「実践編」に分かれていて、「実践編」の時間進行に絡めて、「理論編」が語られます。

この「理論編」がとにかくすごいんです。被虐願望の自覚、幼少期から思春期いたるまでに耽った様々な妄想、「クラフトヱビング」を読んだときの衝撃、自らの性癖を文学にするという立志、そして、当時の日本における「実践」の難しさ。すでに文壇に地位を確立した人が、よくぞここまで書いたと思います。

「実践編」では、驕慢な未亡人の蘭子を、暴君的な女性に仕立て上げようとしますが、しだいに蘭子の従順な性質が現れてきて失敗します。そこで今度は、待合から紹介された不良少女のお縫を標的にします。これが大成功。饒太郎の見込んだとおり、お縫は饒太郎の願望どおりの女性だったのです。饒太郎は自宅の西洋館で毎日毎日お縫に虐待されることで、願望をかなえます。
ところが、これでは終わらない。お縫は恋人の庄司(豪商の跡取りで美青年、饒太郎の後輩)を、饒太郎との関係に引き込んでしまいます。かくして、饒太郎は、「理論編」では語られなかった、まったく新しい快楽、トリオリズムの扉を開けてしまうのです。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつもの通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。我に復った一二分間、しきりにぱちぱちと眼をまたたいて居たが、やがてぱっちり瞳を据ゑると、ほとんど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。あの青年と娘が、むつまじさうにソオフアへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。


本作を読むと、一言一句があまりにも私の思考と一致しているので、ついこんな傲慢なことを考えてしまいます。
「今まで谷崎作品に本格的に触れた人が何万人いたか知らないが、私以上に本当の意味でこの作家を正しく理解した人がいるんだろうか。」
これ、結構本当の本気で思っています。ネットスラングでいう「お前は俺か」という感覚ですね。


金色こんじきの死
初出:大正三年十二月号「東京朝日新聞」
形式:中編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
第一高等学校(本郷)
岡村の邸(箱根)
登場人物
「私」
岡村
スクビズム★★☆
トリオリズム☆☆☆
アルビニズム★★☆
属性美尊醜卑、馬、生体家具(人間池、人間寝台)、女神崇拝、人魚、ファンタジー、西洋崇拝、ブロンド崇拝

谷崎作品では、外界から遮断された空間が創られ、その中でマゾヒスト男性の願望がかなえられる、というパターンが非常に多いです。『少年』の「塙の屋敷」、『饒太郎』の「西洋館」、『富美子の足』の「塚越の家」と「七里ガ浜の別荘」などなど。男の願望を邪魔する法令や常識などの外界の秩序が入り込まないこの空間を、私は「スクビズムの楽園」と呼んでいます。この空間の中では、「醜いものは美しいものに絶対服従する」という外界とはまったく異なる秩序が形成されています。この空間に入れるのはこの秩序に従うもののみ。そして、空間内にいるのは決して一対の男女だけとは限らず、三人以上で小さな小さな「社会」が作られているケースも多いです。
この谷崎の「閉じた楽園」は、全人類・全宇宙を組み込んだ「開かれた楽園」=「百太陽帝国EHS」を創り出してしまった沼正三との、最も対照的な特色といえるのではないでしょうか。
しかし。私は、谷崎の頭の中には、「開かれた楽園」のイメージがあったのではないか、ただ、時代状況が許さなかったために、描くにはいたらなかっただけなのではないか、と考えています。というのも、一部の作品に、「開かれた楽園」の一端が垣間見えるのです。本作もその一つです。

本作に登場する「私」と岡村は、それぞれ谷崎の「現実」と「理想」を体現しています。「私」は文筆業で地道に成功します。一方、美青年で、ナルシストで、美意識が高く、富豪の息子である岡村は、とうてい常人では思いつかない芸術を創作します。岡村の創作は、箱根の盆地に二万坪の土地を購入し、全財産を投じてそこに建設した楽園です。これは、別に人に見せる目的はありませんので、非公開です(つまり、一応一般社会とは隔絶している)。
そこには、豪華絢爛な建築庭園に古今の有名な彫刻が建てられています。そして、女神や、人魚や、「ニムフ」や、「ケンタウル」や、「半羊神フオオン」や、「羅漢菩薩らかんぼさつ」や、「悪鬼羅刹あっきらせつ」が闊歩しています。それらは皆美男美女が扮しており、もちろん女神や人魚や「ニムフ」の役は、金髪碧眼の白人女性です。こんな描写もありますよ。

最後に私達は、人間の肉体を以って一杯に埋まっている「地獄の池」の前に出ました。
「さあ、此上を渡って行くんだ。構わないから僕の後へ付いて来たまへ。」
かう云って、岡村君は私の手を引いて、一団の肉塊の上を踏んで行きました。


此の宮殿の女王と云はれる一婦人が、錦繍きんしゅうとばりの奥に、四人の男を肉柱とした寝台に横たはって居る有様も見せられました。


私はこの「岡村の楽園」、あまりにも『家畜人ヤプー』のイメージに近くて少し笑ってしまいます。(谷崎が沼に与えた影響を否定する人はいないでしょうが、私は、「沼正三の構成要素の80%は谷崎潤一郎、20%が敗戦・占領体験」くらいに考えています。)


つや殺し
初出:大正四年一月号「中央公論」
形式:中編小説
時代設定:江戸時代
舞台設定
駿河屋(橘町)
清次の船宿(深川)
川長(料理屋、柳川)
大川端
金蔵の家(業平町)
尾花屋(深川)
鳶屋(お艶の新居、深川)
芹澤の邸(向島)
登場人物
お艶(染吉)→
新助
清次→
清次の妻→
三太→
金蔵
徳兵衛→
芹澤(旗本)
スクビズム★★☆
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性悪女、殺人、死体陵辱、寝取られ

江戸時代末期、どんどん退廃的になった江戸文化のなかで、女が男を騙し、翻弄して、駆落ち、売春、殺人、などを繰り返す「毒婦もの」と呼ばれる歌舞伎講談が流行したようです。本作はそれをイメージしたものと思われます。谷崎は西洋的、貴族的な舞台設定を好む一方で、こういう退廃的な江戸文化も愛していました。
ヒロインのお艶は、周囲の男性を魅了して、破滅させながら成功をつかんでいくシンデレラストーリー…にも見えるし、豪商の令嬢だった境遇から状況に流されて堕落していく物語、見方によってどちらのようにもの見えるんですね。谷崎はたぶんどちらも好きなんだと思います。ただ、結末…お艶は旗本の美男子:芹澤と共謀して新助を殺し、旗本の妻として幸せに暮らしましたとさ…でいいじゃん!


懺悔話
初出:大正四年一月号「大阪朝日新聞」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正初期)
高貴な未亡人との一晩の思い出。『秘密』に出てくる未亡人や、『饒太郎』の蘭子とそっくりです。モデルがいるのかな?

それにしても、本巻だけでトリオリズムの星が15個!まさに大正初期は谷崎にとってトリオリズムの時代といっていいでしょう。


タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝 美男美女崇拝 饒太郎

沼正三のスクビズム(2)―『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」において沼は、才女(アテネ型ドミナ)崇拝の一例として、沼より(おそらく)十歳近く年少で、既婚であった美人女流作家:曽野綾子のファンである、と宣言しています。

聖心女子学院高等科時代の曽野綾子
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23歳で文壇デビューし、年輩の男性作家と肩を並べて戦後の文壇をリードした作家。そして当時としては異例の身長165cmという長身美女。「才色双絶」とは彼女のためにあるような言葉です。女性の社会進出が進んでいなかった当時としては、どれほど輝いていたことでしょうか。そりゃあ沼先生は惚れますわね。わかります。

しかし、その惚れ方が、ただごとじゃありません。

他のドミナと違って女流作家の場合には、作品の媒介物があるので、次第に傾倒の度が深まるという現象がある―曽野さんの場合、初めはただ彼女の小説やエッセイを貪り読んだ。
…自分より後に生まれた人の書いたものと知りつつ、古典同様人間の生き方を教えられたような気がした。自分より若い女性へのこういった私淑感ははじめての経験であった。
…小品や感想文まで貴重な傑作に思えたのは、才女憧憬心理からの対象神格化が生じていたのである。職業作家の文筆活動の産物はすべて精神的排泄物の一面がある。何でも彼でも傑作に見えるとすれば、一種の汚物崇拝である。



…要するに、「曽野綾子の書いた物を貪り読むことは、彼女の排泄したものを貪り喰う快楽に似ている」ということです。
さすがにこれを読んだときは、「沼先生、頭の中、どうなっちゃってるんですか?」と思いましたよ。
しかし…この奇怪な妄想が、時間がたつにつれて私を魅していくのです。

女流作家には、いくら憧れていても、なかなか会えません。これは、崇拝する美女に触れることを禁じられた切なさに近いものがあります。しかし、女流作家の脳から生み出され、女流作家の手によって書かれた文章はいつでも読めます。女流作家がどこにいて、何をしていても、作品は読めます。これは、美女の体から出た排泄物であれば、美女の肉体に触れずとも、美女と物理的に隔絶していても、触れ、口にし、自らの体とひとつにすることができる、この感覚に似ています。女流作家が新しい作品を発表する。それをすぐさま買いに走る。これは憧れの人の体から出たものに浅ましく飛びつく感覚にそっくりです。『家畜人ヤプー』には、白人貴族の尿は奴隷の高級酒となるので、これを大量に物質複製する、というアイデアが出てきますが、多くの愛読者のために大量に印刷される女流作家の作品を、これに擬しても、まったく不自然ではありません。

いつしかこの妄想は私の大好きな自慰用シナリオに膨らんでいきました。想像力さえ働かせれば、いくらでも新しい快楽を見つけることができる、それがマゾヒズムなんだと思います。

以下は、私の妄想した、「沼正三から曽野綾子へのファンレター」です。

曽野綾子先生

拝啓
若葉の候、ますますご壮健のこととお喜び申し上げます。
先生先生、今日もまた、先生にお手紙を書いてしまいました。時候の挨拶の言葉も尽きようとしています。毎日毎日ファンレターを送ってこないで、少しは憚れ、とお思いかと存じます。私としては、勝手に先生に憧れ、勝手に私淑し、勝手にファンレターを書かせていただいている身でございますので、先生に読んで頂きたいなどという畏れ多いことは考えておりません。どうぞ、封を解かずにに捨てて頂いて結構でございます。毎日ゴミを送ってくるのは迷惑だ、とお思いになるかと存じます。しかし、私は、寝ても覚めても先生を慕う気持ち、憧れる気持ち、尊敬する気持ちをとどめる事ができず、筆が止まらないのでございます。初めて恋をした少年のような気持ち、あるいは、何年も会えずにいる母に憧れる小僧のような気持ち、とでも思っていただけたら、お分かりいただけるかもしれません。先生からしたら、本当に便箋を無駄に浪費したゴミそのものというような文章でございましょうが、これを書くことによって、少し、発作がおさまり、胸の疼きが癒えるのでございます。どうか、禽獣にまで及ぶというその深い深いご慈悲で、私がファンレターをお送りすることをお許しください。私は、先生が、郵便物の差出人名に私の名を見るや、またか、といって、直ちに屑籠に投げ入れている様を想像すると、それだけで、ぽかぽかと満たされたような、ありがたい気持ちになるのでございます。逆に、封を開けて文章をご覧になるということを想像しますと、いかに私の下劣で支離滅裂な文章が、先生の聡明で穢れのないお眼を汚すかと思うと、畏れ多くて、畏れ多くて、それだけで胸がそわそわしてしまうのでございます。

先生先生、私は、今までは、最高級の便箋に私の駄文を書いてお送りしていました。私の先生に対する神聖といってもいいくらいの憧れと尊敬のお気持ちを書き表すには、最高級の便箋がふさわしいと考えたからです。しかしよく考えますと、いくら私にとって神聖な気持ちを表したといって、先生にとってはゴミでしかないのですから、高級便箋がふさわしいなどというのは、とんでもなく滑稽な思い上がりなのではないかと思うようになりました。最近私は、最高級のトイレットペーパーに、先生へのファンレターを書いております。ファンレターは私の自己の満足のために書いて先生のもとへ送らざるを得ない。しかしそれを便箋に書いて封筒に入れてお送りしても、ゴミになるのだけであります。慈悲深い先生はそれを許してくださるかもしれないが、それでは申し訳ない。それならば、少しでも実用のお役に立つよう、トイレットペーパーにファンレターを書き、使っていただきたい、と思ったのでございます。ロールに巻かれているトイレットペーパーを、少しずつ引き出しては、高級便箋に書いていたときと同じように一字一字、私の先生に対するたまらないような、溢れるような想いをしたため、また、少しずつ丁寧にロールに巻いていくのでございます。私は一巻き分書き終わりましたらこれを、先生にお送りしようと考えているのでございます。私は、私が一字一字先生への神聖な気持ちを込めて書いた紙が、先生の生活の実用の役に供されている場面を想像すると、法悦と申しますか、ecstacyに近い感動を覚えるのでございます。先生は、私の卑賤な文章が私の汚い字で書かれた紙が肌に触れるのは汚らわしい、と思われるかもしれません。至極ごもっともな事でございますので、そのときは、どうか、女中さんがトイレの床を掃除するときや、先生のお靴を磨くときに、お使いいただけたら、この上なくありがたく思うのです。

先生先生、先日、先生の御本は、私の書斎の一番高級な書棚の、一番上に鎮座していらっしゃる、そこは以前は谷崎全集を置いていたが、それを全部どかして先生の御本をお納めした、私は毎日朝昼晩先生の御本に向かってお辞儀をしている、などと申し上げましたが、今は、そこには谷崎全集を戻しております。先生の御本はもう書斎には一冊もございません。私は応接間の壁の高いところに、神棚のようなものを作り、先生の御本はそこにお移り頂いたのでございます。私は毎日、朝起きるとまず体を清め、応接間に入って先生の御本に向かって頭をつけて御挨拶をするのでございます。今日も、私をお導きください、と、大きな声でご挨拶します。それから、三十分かけて神棚をお掃除いたします。それから、先生の御本に、授業をしていただくのでございます。朝は二時間、直立して、大声で先生の御本を朗読いたします。先生の御本を朗読していると、先生のお教えを、体に叩き込まれている感じがして、ゾクゾクするような感動が、全身を満たします。午後は二時間、先生の御本を書き写します。一字一字丁寧に書き写していると、頭の中にある余計な知識や情報が、先生の教えによって叩き出されていく感じがして、スゥと、高いところ(先生の御足下よりは、ずうっと低いところでございます)に引き上げられていくような感じがいたします。

先生先生、私は、私の頭の中の、記憶、経験、知識、情報、その他人格を作り上げている一切のものが頭から叩き出されて、先生の教えで頭の中が完全に満たされれば、いったい今よりどれだけ上等な人間になれるんだろうと考えています。たとえば、ニーチェなら、先生がニーチェについて数行触れている文章を、何百回でも読み、頭に刻み込んだほうが、私ごときの理解力でニーチェの全集を読むことよりも、はるかにニーチェを正しく理解した、ということになりましょう。あるいは、私の目に白く見えていたもについて、先生がお書きになったものに「黒だ」と書かれていたとしたら、それは百パーセント間違いなく黒なのでありますから、私の眼にそれが自然に黒く見えるまで、何百回でも何千回でも何万回でもその文章を読み、朗読し、書き写すことで私の頭の畸形を矯正せねばならない、と思っております。

先生先生、私は、私に文章を教え、世界を教え、人生を教え、考え方を教え、ものの見方を教え、本当の哲学を教え、本物の神様を教えてくださる先生の御本一冊一冊は、私の命よりも、遥かに尊いものだと思っております。あるいは、先生の小説に登場する人物、彼らも私にいろんなことを教えてくださるお師匠様ですので、たとえ小僧であっても、頭をつけて挨拶したいと思っているのでございます。いいえ、もっと申しますと、先生の御本の中の活字一字一字が、先生の、私などには想像もつかぬような、聡明で、神聖な頭の中(本当の極楽浄土のようなところではないかと思っております。)からお生まれになり、先生の手によって書かれたものが印刷されたかと思うと、その活字一字一字ですら、私ごときの命とは比較にならないほど尊いものに思えてしまうのです。私が、何を申したいのか、聡明な先生には(私などから見ますと、先生は本当に全知なのではないか、一を見聞きすることで百も千も理解されてしまうのではないかと思ってしまうのです。)もうお分かりかと存じます。敬虔なクリスチャンでいらっしゃる先生に対してこのような考えを抱くことが、どれほど罪深いことかを考えますと、申し上げるのが憚られますが、心の中で思う罪と、申し上げる罪は同じかと思い、畏れながら申し上げます。先生先生、私の本当の神様は先生なのでございます。地獄の火に焼かれようとも、この心の中の想いは消えてくれないのでございます。先生先生、先生の深い深いご慈悲にお許しを請います。心の中で先生を神様としてあがめることをお許しください。

敬具

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沼正三のスクビズム(1)―『手帖』第三章「愛の馬東西談」~アリストテレスの馬

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第二章から第七章は、「馬」をテーマにしています。章題と概要は下記のとおりです。

第二章 馬上の令嬢
アルテミス(ダイアナ)型のドミナの一典型として、乗馬をたしなむ上流階級の令嬢を考察します。

第三章 愛の馬東西談
人間馬を扱った東西の古典説話を紹介します。

第四章 ナオミ騎乗図
谷崎潤一郎『痴人の愛』の人間馬場面を徹底考察。二次創作付きです。

第五章 侯爵令嬢の愛馬
エミール・ゾラ『一夜の情を求めて』を紹介。ある侯爵令嬢が二人の青年をそれぞれ馬と犬に馴致し、彼らを踏み台に幸せを掴むシンデレラ・ストーリー。

第六章 生きた玩具としての人間馬
『あるロシアの踊り子の回想』という小説を紹介。小公子小公女による、領民の子女を玩具とした雅な遊びをたっぷりと。「両脚型」の人間馬が登場します。

第七章 人間馬による競馬
『鞭打つ女たち』という小説を紹介。欧州貴族が米大陸の奴隷に転落し、転々と売られ酷使されます。「補助車型」の人間馬が登場します。

特段「馬派」であるという自覚のない私ですが、これを読んでいる間は馬派にならざるをえない、というくらい、素晴らしくマゾヒスティックな内容です。

さて、この中でも私が特に大好きなのが、第三章「愛の馬東西談」に紹介されている説話「アリストテレスの馬」です。簡単にご紹介します。

大哲学者アリストテレスは、マケドニアの宮殿に招かれ、後にアレクサンドロス大王となる王子の専属家庭教師をしていました。ところが宮女フィリスとの恋に夢中になった王子は、次第に学業が疎かになっていきます。アリストテレスは王子を「色欲を慎みなされ、娘っ子など忘れなされ。女は茨じゃ!」と叱責し、二人の仲を割こうとします。
事情を知ったフィリスは大広間で密会した際、王子に、老人への復讐を約束します。

「学者先生は毎朝この大広間で散策するの。妾、明日ここで待伏せしてやる。そして目に物見せてくれるわ。よくって。あなたは、外に隠れていて、妾が奴をピシャピシャ叩いている音が聞えたら、そうーっと入って来るのよ。胸のすくような思いをさせたげるわ」


翌朝、大広間を散策していたアリストテレスの前にフィリスが現れ、「お馬ごっこをしたい」とせがみます。老人は初めは威厳を損じることをおそれて拒絶しますが、フィリスは色仕掛けでたぶらかします。手練手管に老人は落城し、四つん這いになって、背中にはクッションの鞍を乗せ、口には手綱をくわえます。老馬が前進をし始めてから、最後にフィリスがひらりと飛び乗ります。
一通り乗り回したところに、王子が現れ、恋人に接吻の雨を降らせます。老人は頭上に、勝者の嘲りを聞きます。

「先生、何ということです。分かりましたよ。哲学も倫理学も心理学も解剖学も役に立たなかった。色欲を誡めたくせに女に乗られている。娘っ子を忘れろといいながらその娘の手綱をくわえている。女は茨じゃと教えて女の拍車を受けている。それなのに、この十七歳の私が青春をあきらめなければならないのですかね?」
「違うわ!あなた、ここへいらっしゃいな。(跨ったまま王子を抱擁して)妾の胸に、妾の口に、寄り添って何時間でも!この右手で髪に触らせて、この左手で腕を握らせて!ゆっくり楽しみ、うんと遊び、大いに祝いましょう!妾が(この馬を)支配するための時間は、たんと残っているわ。さあ、学者先生、進むのよ!」



この説話は、もちろん史実である可能性は低く、東方発祥の説話が伝播し、欧州においては、アリストテレスとアレクサンドロス大王が、登場人物として当てはめられてしまったようです。この説話は中世以降大いに流布し、特に中世神学においても大きな権威をもっていたアリストテレスを、美しく、自由奔放で情熱的な若者たちが屈服させるという構図は、ルネサンスの「人間賛美」の考えに合致し、多くの歌劇や芸術作品の題材となったようです。(一部作品の画像が入手できましたので、末尾に掲載しました。)

さて、私が、この説話が他の人間馬談と比較して特に好きなのは、人間馬そのものの昂奮の他に、大好きな要素が入っているからです。すなわち下記の二点です。

①「美尊醜卑」の秩序
アリストテレスは大哲学者としての絶大な「権威」、そして王子に対しては年長者として、教師としての絶対的な「立場」を持っています。これらは人間社会が作り出した「秩序」「礼儀」などの人為的な価値基準に支えられた一種の「力」です。普段、人間社会の一員として生きていくうえでは、皆、これらの人為的な価値基準を尊重し、それに支えられた力に従って生きています。しかし、自然な本心では、「権威」や「立場」に、それほどの価値を認めていません。私が価値を認めるのは、「美」です。美しいものが大好きなのです。美しいものを見ると、もうその他の価値のことなどどうでもよくなってしまいます。
そして、この世で最も美しいものは何か、それはフィリスが備える、若い美女の容貌・肉体です。これは、人間が、社会の一員である前に、一匹の雌雄異体動物であることを重視するならば、至極当たり前のことです。この、この世で最も美しいものの価値を、さらに高みに上げたいと思い、そのためには、そうだ、その他の価値を貶めてしまおうと考えるのが、「美尊醜卑」の秩序です。「耽美主義」という言葉も近い概念ですが、私の考えはむしろ、ルネサンスの中心的な思想である「人間至上主義」に近く、この「人間」を、「人間の(精神を排した)肉体」と読みかえたものかな、と思っています。
「アリストテレスの馬」の構図は、三人の登場人物を不自然に縛っていた社会的、人為的な秩序が破壊され、自然的な「美尊醜卑」の秩序に再編成される様が見事に象徴的に描かれていると思います。「美尊醜卑」に関しては、谷崎序論①~③もご参照ください。

②トリオリズム
トリオリスム。三者関係。マゾッホ、谷崎、沼といった文豪も好み、現在の日本においても「劣位の三角関係」「寝取られマゾ」「カップルの奴隷願望」などという用語も提唱されるなど、根強い愛好者をもつこの奇怪な願望については、とてもここでは説明し切れません。私にとっては、本当に身も心も蕩かすような強力な魅力を持った願望ですので、いずれ本格的に論じたいと思います。
特に、トリオリズムとスクビズムをミックスしたモチーフ、妄想は、危険なくらいに強く私を魅了します。「二人に乗られる」「二人の前に土下座する」「二人の足を…(色々)」「二人の体から出たものをミックスして…(自重)」といったものです。そして、自分は二人に「下から」奉仕したまま、上位の二人が愛し合う。この妄想は私に、「お前は存在そのものとしては完全に無価値である、故に奉仕することによってのみ、お前の存在価値は生まれる」ということを脳にダイレクトに叩き込まれるような、超強力な快楽を私に与えます。
「アリストテレスの馬」の構図は「二人に乗られる」「背中の上で愛し合う」というトリオリズムとスクビズムのミックスが見事に象徴的に描かれています。

さて、前二記事の、二本の谷崎作品の二次創作は、この「アリストテレスの馬」を契機に妄想したものです。
①「美尊醜卑」の秩序の要素を入れるため、人間馬には、いずれも年長者であり、職業としても本来敬われるべき教師と僧になってもらいました。②トリオリズムの要素は、『無明と愛染』にはもとより含まれており、無明太郎には当然の権利の行使として畜生法師の背に乗ってもらいました。
『鶯姫』の場合は、トリオリズムを準三者関係にすり替えて、子爵令嬢の三人のご学友に、代わりばんこに一緒に乗ってもらいました。老先生は、憧れの美少女「専用」の馬にはなれず、ご学友三人との「共有」になってしまいました。人間馬になること(スクビズム)で人格を否定された上、ご学友との共有にされたこと(準三者関係)によって、馬としての存在意義も否定される感覚。トリオリズムを好まない、という方の中にも、この切ない快感はわかる、と思っていただける方がいらっしゃれば、幸いです。
さらに『鶯姫』の二次創作には、「間接支配によって、最上位者との隔絶を楽しむ」という要素も含めています。老先生憧れの子爵令嬢が一人で騎乗したのは最初の一周だけ。それ以降はご学友が一緒に乗っており、手綱を引いているのもご学友。子爵令嬢は座布団の鞍に座ってしまい、直接お尻を乗せているのもご学友。今後乗馬鞭が導入されたとして、それを振るうのもご学友でしょう。四少女の新しい召使に、一挙一動の細かい命令をして直接支配するのは、年少の子爵令嬢をお姫様として仰ぎ見ている三少女の役割となるでしょう。そうなったとき、老人には、時折下される子爵令嬢の言葉は、どれほど恐ろしく、どれほどありがたく響くことでしょうか。この三少女の役割は、『家畜人ヤプー』においては、黒奴が務めているのですが、私の(私の、ですよ!)審美眼から言うと、アフロアフリカンの子孫を間接支配者に置くのは、「美尊醜卑」の秩序に合致せず、不満です。子爵令嬢→三少女→老人というような、分かりやすい美醜の序列に基づいた秩序のほうが、しっくりくるのではないかと思います。

「フィリスに乗られたアリストテレス」青銅製水差し、1400年ごろ、フランス
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王子に対しては「この右手で髪に触らせて、この左手で腕を握らせて!」といったフィリスの発言との対比を意識しているんでしょうか。

H.B.グリーン「馴らされたアリストテレス」(1513年)
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『手帖』の挿絵として採用されています。

以下詳細不明

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参考:映画「アレクサンダー」の一場面:アレクサンドロス王子とアリストテレス
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