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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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『ある夢想家の手帖から』全章ミニレビュー 第5巻「女性上位願望」

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』につき、全章をミニレビューをつけて紹介していきます。
入手できた挿画、関連する画像を合わせて掲載します。




第一二〇章
白痴を使って
以下五章は、「手段化法則」の例として、古代ローマの奴隷制を紹介。
古代ローマの諷刺詩人マルチアリスの詩から、白痴モリオ(貴族に愛玩用として飼われた後天性の身体・知的障害者)の描写を紹介。
貴婦人が夫の前で情夫と間接キスをするのに、モリオを介して行ったという場面。

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ジャック・オレック「メッサリーナ」の表紙画

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ペーパーバック版の表紙                  マール・オベロン扮するメッサリーナ

付記では大和勇「黄色いかなしみ」を紹介。

金髪女優ハニイの奴隷となった小男の日本人が、夫婦の寝室の性具や人間ビデとまで蔑んだ扱いをされながら、女主人の肉体を犬のように慕いこがれ、最後には鼻の穴の隔壁の軟骨に鼻輪を通すための孔を穿たれる。
(ハニイはその鼻輪を自分のハイヒールの踵に短い鎖で繋いで歩きまわり、彼を否応なく四這わせ、犬同様にお伴させようともくろんでいるのだろう)
ハニイと夫のジルが男を性具として使う場面の描写です。
「フフ……この格好、こいつの黄色い親が見たら、なんて思うかしらね」
 実際、親に見せられる格好ではなかった。私の首根っこは、うしろからハニイの股に喰わえ込まれ、口腔はジルに押し込まれて物も言えない状態だった。要するに、私の頭蓋骨を間にして、二人は愛し合っていたのだ…



第一二一章
チベリウス帝の小魚たち
ローマ皇帝ティベリウスが幼児の奴隷を性具として扱ったことを紹介。

第一二二章
便器奴隷
古代の便器奴隷の実例を紹介。
便器奴隷とは、主人の排泄にかかわる処理を専門に行う奴隷。
(自ら便器となる人間便器とは異なる。)
汚物愛好の核心を突く記述があります。
マゾヒストは、崇拝対象を排泄物と排泄動作から遠ざけることで、その高貴性を維持しようとし、これが進むと、崇拝対象の排泄物を口にすることで、「崇拝対象の体から出たものは普通の排泄物ではない、食べられる」という理論で合理化をすることになる、というものです。

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オーブリー・ビアズリー「丘の下で」

付記では「家畜人ヤプー」の肉便器セッチンについて、「ローマ世界の貴人達の到達し得た贅沢をイースの貴族達に味わせぬのでは申し訳ない」と思って、便器奴隷を源に構想したもの、としています。

第一二三章
ドミナの朝
ユウェナリスの詩から、ローマの貴婦人の、なんの咎もない女奴隷への暴虐な鞭撻について。

第一二四章
奴隷は人間なの?
引き続きユウェナリスの詩から、ローマの貴婦人の奴隷に対する扱いについて。
奴隷の処刑に慎重を期す夫に対する貴婦人の魅惑的な一句です。
あれが何もしてなくたって、命令は実行エストさせるわ。あたしはそう望むから、そう命令してるの。理由ラチオなんか要らない。妾の意志ウォルンタンスがその代わりをするわ」

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第一二五章
世紀の魔女
ナチス・ドイツのブーヘンヴァルト強制収容所の初代所長カール・コッホの妻で、「ブーヘンヴァルトの魔女」と呼ばれた悪名高い看守イルゼ・コッホについて。
戦犯裁判の法廷記録から、数々の残虐行為を紹介。
「手段化」の極北として、囚人の皮膚をなめして作った手袋、ブックカバー、ランプ・シェードが登場します。

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映画「愛を読む人」より、ケイト・ウィンスレット扮するヒロイン:ハンナ・シュミッツ。モデルはイルゼ・コッホとも。愛人の青年にプレゼントした本のカバーは…

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イルマ・グレーゼ。「ベルゼンの獣」としてイルゼ・コッホと並び称されたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所およびベルゲン・ベルゼン強制収容所の女性看守。

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ラーフェンスブリュック強制収容所の看守ドロテア・ビンツの残虐行為を批判した風刺画。

第一二六章
ある貴婦人の道楽
ある欧州貴族の嗜虐女性サディスティンの症例報告を紹介。
夫に隠れて保養地で男性を手玉に取り、乗馬鞭で調教して「あたしの後を犬みたいに追っかけまわすようになる」まで馴致し、性的満足を得る、というもの。

第一二七章
サド女性とレスボス愛
女性のサディズムに関する精神医学者ヴィルヘルム・シュテーケルの説を紹介。
女性のサディズムの根源は、同性愛者の女性が、自分の中の男性的傾向を抑圧した結果、男性に対して嗜虐的になったものである、とするものです。
沼は奇譚クラブに寄稿していた皆川のぶ子という作家を例に、この説に賛同しています。

追記で三原寛の作品を紹介。

「嬲る」
イサベル・サマリヤ「虐待トゥルマンテ」(Tourmenter)の訳出。ヒロインのイサベルはフランス人と見違える容姿を備えたブロンドの白人混血児で、ベトナム(?)の大地主の娘。彼女が日本の某商社の現地支配人マツオの秘書になり、やがて彼を征服して奴隷化し、会社を私物化して大儲けをし、本社に発覚して彼が解任された発狂するまで二年間絞りぬく。「白人の女に対して絶対的な劣等感コンプレックス・ダンフェリオリテ・アブソリュー」をもつマツオは、イサベルに恩恵として乗馬鞭クラヴァシュで叩いてもらう(鞭の儀式)ために、何でもサインしてしまう。
沼は本作に①白人崇拝、②地位逆転、③女神と畜生との距離、④ドミナへの男性付与、⑤下部願望スクビズム、⑥鞭の種類といったモチーフが見られると賞賛しています。
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「愛人/ラマン」(1992年、英仏合作映画)より



第一二八章
鞭を揮う女賊
谷崎潤一郎が「恋愛及び色情」で取り上げた「今昔物語集」収録の説話を紹介。
男を鞭撻する強盗団の女首領の話。

第一二九章
女性の乗馬
女性が乗馬をすると、サディスティックになると説きます。
「乗馬とは支配の技術である。感情と意思と判断とを有する本来独立した高等動物の一匹を自分の意志に隷属させる技術である。轡と手綱によって馬の自発的意志を奪ってしまうのであり、鞭と拍車とによって乗馬の意志を強制的に加えるのである。全生物界を通じて生物が一個体の他の一個体に対する支配にしてこれほど徹底的に完璧なものはあるまい」
…畜化願望のなかでも「犬」とならんで「馬」がなぜこれほどマゾヒストに愛されるのかがよくわかる一節です。

付記では、「さらばアフリカアフリカ・アディオ」という記録映画を紹介。

独立後の黒人支配により荒廃していくアフリカの状況のルポで、白人支配当時の映像を用いて当時の繁栄安逸をシンボライズする場面が紹介されています。
黒人馬丁の頭上を踏み越して乗馬する白人令嬢、黒人に狐の尾を持たせて走らせ、犬と馬で狐狩り同様に追う白人騎手。
革命後、白人邸宅を略奪した黒人が、トイレの便座を取り外して首飾りにして得意になっている場面など。

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「Africa Addio」(1966年、イタリア映画)より、該当場面


第一三一〇
乗馬専門女主人に
女性乗馬を扱った短編小説として、池上信一「馬狂いの女たち」を紹介。
「調教のため」ではなく、「鬱散なため」に馬を鞭打つ女性たちが登場します。

第一三一章
乗馬専門女主人アマゾン
性科学書に掲載されている症例から、マゾヒストが職業的ドミナに送った手紙を紹介する「マゾヒストの手紙」シリーズその七。
乗り賃を(「払う」のではなく)「貰う」乗馬専門のドミナが登場。
人間便器への言及もあり、沼は次のように解釈しています。
「待ちこがれつつ口を開いて近づいてくる女主人の体臭を吸うというのは、特に神酒ネクタルに対する渇望とも読めるけれども、私はかつての体験などに微して、一般的な水分欠乏による渇きとしてここを読んでいる。つまり、便器にされて部屋の一隅に繋縛されたまま水分を与えられぬので渇き切っている。そこへようやく女主人が放尿しに近づいてくる。待ちこがれた男はもう口を開いて期待に震える…そういう場面だと思う。」
非常に臨場感のある描写ですね。

本筋ではありませんが、付記に日本の風俗史について、「幕末には開いていた異常性愛文化の頽廃の華が、維新と共にしぼんでしまい、西欧の世紀末の頽廃のムードが入って来たのはやっと昭和初年になってであったし、それも不十分なものだった」との見解があります。

第一三二章
跨がる女たち
女性乗馬の浸透と、女性上位の世相について。

第一三三章
スクビズム
スクビズムについて。
付記を含めると36ページにおよぶ、最重要章のひとつ。
こちら↓をご参照ください。

スクビズム総論

本章ではスクビズムの各類型およびその複合の仕方について、谷崎潤一郎を大量に引用して説明しています。沼の称する「正当マゾヒズム」とは、要するに谷崎潤一郎のことである、ということが本章を読めばよくわかります。
こちら↓をご参照ください。

沼正三の谷崎潤一郎論

付記では、ジョージ秋山の「ゴミムシくん」というとんでもない漫画が紹介されています。
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第一三四章
クーデンホーフ伯爵夫人
明治時代、駐日オーストリア大使グーデンホーフ伯爵と結婚して渡欧した青山光子について。
江戸町人の娘だった光子が西洋貴婦人マリア・テクラ・クーデンホーフ・カレルギ伯爵夫人に転身メタモルフォーゼするシンデレラ・ストーリー。

付記では「美しき東洋の真珠」デヴィ・スカルノ夫人にも言及。
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第一三五章
黄色い肌の犬(『肉林願望』)
宇能鴻一郎「肉林願望」を紹介。

主人公田丸は三十五歳で独身の助教授。田丸の人種としての日本人の肉体の醜さへの歎息と、白人の圧倒的に美しい肉体への賛美がつづく。日本人は白人の召使いの地位に甘んじるのが身分相応なのではないと考えることで「気持ちも安まり、悲しみのうちにも一種の甘さに似た、なつかしい感情に浸れる」という心境に至る。田丸は横浜の繁華街でプラチナ・ブロンドの白人女性:ポーラと出会う。田丸が有頂天になって話す「日本人下僕論」を聞いたポーラは、田丸を乱交パーティに招待する。パーティで田丸は全裸に首輪をつけられ、白人男女の嘲笑の中、ボルゾイ犬との犬芸を披露させられる。


このあと、沼の二次創作が続きます。

ポーラはタマルを部屋の真中に曳いて来ると、ミニ・スカートのパンティを脱いで、それをタマルの頭にかぶせて言うのだ。
「さァ、これが花嫁のヴェールの代りよ」
そう聞かされても、タマルは何のことか分からず、ポーラの大サービスを喜び、かぐわしい香りに恍惚となりながら、命令されるまま床につけた膝を曲げつつ両脚を閉じ、上半身を下げながらお尻を上げて、パンティをかぶったままの顔を絨毯に押しつける。上背部にポーラが腰を掛け、ヒップの重量でタマルの上半身を固定する。視界を奪われたタマルは、感触と四方から降る嘲笑で自分が雄犬に肛門を犯されていることを悟る。ポーラが男に誘われて去り、背中の圧迫がなくなる。皆は彼を忘れた。しかしタマルは動かない。動けない。呪縛されたように。あきらめの快感に全身が虚脱されてゆく…


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映画「嘆きの天使ザ・ブルー・エンジェル」より、メイ・ブリット。スウェーデン出身、身長一七〇センチ、髪プラチナブロンド、瞳ブルー・グレイ。

さらに付記では、南村蘭の連作「金髪美少女クララさま」「金髪パーティ」を紹介。

大学助教授の田丸は、米国留学中不良少女クララに夢中になる。少女は彼の白人女性崇拝という弱点を見抜いて彼に金を貢がせて男女の友人を呼び集め、彼を共同のメイドにして家事奉仕させ、余興をさせる。唯一の報酬は彼女の穿き脱ぎのパンティである。乱交パーティでは男と交わった後のクララから、「お前、あたしを犬の代わりにお舐め」と命令される。



第一三六章
魔女が島(『ユリシーズ』)
ジェームス・ジョイスをマゾヒストであると断定し、二十世紀文学の金字塔と言われる「ユリシ-ズ」の第十五挿話「キルケ」から、スクビズムに関する場面を紹介しています。
沼はこの第十五挿話をマゾ文学としても最高の作品である、と評価していますが、訳文を読んでもやはり相当に難解です。
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マリー・ケンドル扮するマーヴィン・トールボイズ夫人

片瀬海岸物語

もう、だいぶ長いことここに腰掛けている。
波音と雑踏がのどかに響く。
今日も私は独りだ。

大型連休など、「毎日が夏休み」の私にはあまり関係ないのだが、なんとなく出かけなくてはという強迫観念が働いて、久々に湘南海岸などに来てしまった。

辻堂の歩道橋あたりで、仲睦まじい一組のカップルに目を奪われた。
若く、清純そうな二人。
ぎこちなく手を繋ぎ、あどけなく語り合う。
ときおり昂ぶったように走りだし、息を切らしては青年が少女の肩にもたれかかる。
海風が少女の長く黒い髪をなびかせ、白いレースのロングスカートがふんわりと膨らむ。
幸福の絶頂が、少女の持って生まれた美しさに、早めの絶頂をもたらしているように見えた。
私は恋に落ちた。

江ノ島方面へ向かう海岸の遊歩道。
二人の二メートルくらい後ろをつけて歩く。
さりげなく近づいて、少女の横顔を盗み見る。
すらりとした後姿から想像していたとおり、すっきりとした輪郭と鼻筋だった。
さわやかなコロンの匂いもかいだ。
うっとりとしていると、少女と目が合ってしまった。
とっさに海のほうに視線をそらす。
ペットボトルをいじくったりしてごまかす。
おそるおそる二人のほうへ視線を戻すと、なにかこそこそと話をしている。
腹筋の辺りにゾクゾクとした緊張が走る。
しかし、特段私のことを怪しむ様子はない。
二人にとっては今、この世界には二人しかいないのだ。

少女の左側斜め後方の位置を維持して歩いた。
少女は常に青年のほうを向いているが、ときおり髪をかきあげたり、空を見上げたりすると、ちらりと白い横顔がのぞく。
会話も聞こえる。
なんということだ。
少女は中学生ではないか。
青年は大学生か。
鼓動が高鳴る。

今日は来てよかった。

江ノ島が目前に迫る片瀬海岸で、二人は階段状になっている堤防に腰掛けた。
しばらく海を眺めるのだろう。
私も何食わぬ顔をして、やはり少女の斜め後方、二段上の堤防に腰掛ける。
その距離五メートルくらい。
堤防にはたくさんの人が腰掛けているので、それ自体はなんら不自然なことはない。
ただ、私の不躾な視線。
二人とも気がついていないのだろうか。
距離が遠く、波音と雑踏に紛れてもはや会話はろくに聞こえない。
「あの人私のこと見てるよね」
などと話して笑っているのではないかと想像すると、ゾクゾクとしたスリルが腹筋のあたりを走る。
しかし、また、まったく私のことなど目に入っていないのではないか、と思うと、疎外感にキューンと胸が切なくなる。

そうしてもう、だいぶ長いことここに腰掛けている。
波音と雑踏がのどかに響く。
今日も私は独りだ。

ポツンと独りで堤防に腰掛けている。
しかし、心は暖かい幸福感に陶酔している。
斜め前方に座っている爽やかで睦まじいカップル。
二人の作った、白くてやわらかい繭。
本来二人以外は何人も入れないその繭に、私の魂は入れてもらっている。
二人の体温で温まり、二人の匂いで満ちているその繭に、私の魂は安らかに包み込まれている。

そのままどれくらい見惚れていたのか、我にかえったのは、少女が左手首の時計をチラッと見たからだ。
行ってしまうのか。
遊歩道は江ノ島で終わり。
さすがにこれ以上stalkingするのは難しい。
幸い二人はもうしばらく留まるようだが、私はこの蜜月が永遠でないことに気づいたとたん、泣きそうなくらい寂しくなった。
行ってしまったら、二度と再び会えることはないだろう。
私はまた独りになってしまう。

思い切って、二人の前に歩み出て、足元に土下座して、「奴隷にしてください」とお願いしてみようか。
後悔を残さないためにはそれしかないことは確かだ。
十年位前に実行してみたこともある。
しかし、結果は分かっりきっている。
満ち足りた二人には、奴隷なんて要らないのだ。
あんなに近くに感じていた二人の後姿が、遠く感じられた。

日が傾いていくのを感じ、周囲に目を移してみた。
ビーチバレー、フリスビー、ロードレーサー。
そして、首輪にリードを結ばれてうれしそうに散歩する様々な種類の犬が目に付いた。
犬。
私が犬だったら、足元に擦り寄っていけば、二人は珍しがって、撫でてくれるだろうか。
どこまでも後ろを慕っていけば、哀れんで連れて帰ってはくれないだろうか。

想像はあらぬ方へと向かう。
今や私は、全裸に首輪だけをつけ、二人の足元に侍っている。
首輪に繋いだリードを少女が握っている。
飼い主である二人の逢瀬に人犬として付き従っているのだ。
辻堂からの散歩道を、回想しなおす。
二人は先ほどと変わらない。
私だけは少し違う。
二人の少し後ろを歩いていたのが、少し前を歩いている。
そして、二足歩行から四足歩行になっている。
手足は…人間のままだ。
アスファルトやコンクリートやインターロッキングとぶつかり合って手足はボロボロになっている。
が、私は先ほどのような卑屈な目をしていない。
先ほどよりはるかに楽しく、歓喜に満ちた目をしている。
リードがピンと張って、少女が引っ張り返すときに首が絞まるのがうれしくて、どんどん先へと歩いてしまう。
先ほどもすれ違った夫婦と、またすれ違う。
夫婦の様子は先ほどと変わらない。
違うのは、夫婦も私と同じような格好の人犬を連れていることだ。
先程は独りで缶ビールを飲みながら海を見ていた年配者だ。
彼もまた、先程よりも幸福そうな目をしている。
すれ違うときにちらりと私のほうを見たあと、甘えるように夫人の足元に擦り寄った。
それを見て私の飼い主の少女が「かわいい」「ポチ嚇したでしょ」なんて言うので、切なくなってしまったが、青年が「いや見てたけどなんもしてなかったよ」とかばってくれたのがうれしかった。
私の視界からは二人の足元しか見えない。
だから、「見てくれていた」というのがわかってうれしかった。

そこでまた、我に返った。
もう、だいぶ長いことここに腰掛けている。
波音と雑踏がのどかに響く。

小さな子供も目に付く。
無邪気に、父母にじゃれつく子供たち。
子供。
子供だったら。
少女は中学生。
子供のいる年齢ではない。
しかし、二人の小さな子供になって、青年と少女の足元に無邪気にじゃれつき、甘えたい衝動が湧き上がる。

二人の間に手を引かれ、江ノ島大橋を渡る。
食事をして、帰路に着く。
満員の江ノ電では、青年のジーンズと少女のスカートが、私の小さな体を守るように挟む。
電車を乗り継いで家に着く。
青年と、少女と、私の家だ。
「おとうさん、おかあさんきょうはね、すごくたのしかったんだありがとう。ねえ、きょうはいっしょにねていい?」
なんて言って甘えて、青年と少女の体温と匂いに包まれて眠りに着く。

さて、私の同衾はかなわないとして、二人は今夜床を共にするのだろうか。
それならいっそのこと今夜、二人の愛の結晶として、少女の幼い子宮に、小さな小さな新しい命として生まれなおすことができたらどんなにか幸福だろうか。
あの華奢な下腹部にやわらかく包み込まれ、酸素も、水分も、養分も少女の体を通ったものだけを得て生きられたら。

また海風が吹いて、少女の長い黒髪がなびき、白いレースのロングスカートがふんわりと膨らむ。
私の母も髪が長く色白で、背は高かったが華奢で、よくロングスカートを穿いていたのを、ふと思い出した。

辺りが黄金色に染まっていく。
二人が立ち上がった。
江ノ島大橋から夕日を見るのだろうか。
もう、これ以上後を慕おうという気もなかった。
二人は去り際に私を見たようだったが、私は真っ直ぐに海を見ていた。

もう、だいぶ長いことここに腰掛けている。
波音と雑踏がのどかに響く。
今日も私は独りだ。

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苦痛と陵辱


「肉体的受苦」と「精神的陵辱」

沼正三は、「ある夢想家の手帖から」第一一八章「苦痛より陵辱を」で、マゾヒストと認識されている人々の中には、性的快感において「肉体的受苦」を重視するグループと、「精神的陵辱」を重視するグループにはっきりと分かれる、と述べています。

「精神的陵辱」とは、「スクビズム総論」で概説した、下図のような諸願望です。

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一方の「肉体的受苦」とは、

「皮膚が破けるほど鞭で打たれたい」
「縄や手錠などで拘束されたい」
「格闘技の技をかけられて悶絶したい」
「針や、焼鏝や、水責めで拷問を受けたい」

といった、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、という願望です。
確かに、この願望なくして、マゾヒズムの諸相を網羅できているとは言えないでしょう。

その上で沼は、沼自身や森下高茂、鬼山絢策、真砂十四郎それに谷崎潤一郎が属する「精神的陵辱」を重視するグループこそ、「狭義のマゾヒズム」「真正マゾヒズム」であり、「肉体的受苦」を重視するグループはマゾヒズムの名に値せず、これと区別して「アルゴグラニア(受動的苦痛愛好)」と呼びたい、とします。

この部分は、「女性上位時代」の「沼正三流マゾヒズム道入門」第1章第2節「「苦痛より陵辱を」・・・真正Mとは?」でも紹介されています。
これについて馬仙人は、沼の「真正マゾヒズム」⇔「アルゴグラニア」という分け方に異を唱え、「苦痛系も陵辱系もマゾヒズムに含めた上で、しっかりと両者を峻別して考えればよい」とされています。

しかし、馬仙人も、「陵辱系マゾヒズム」と「苦痛系マゾヒズム」とは「(サメとシャチのように)表面的にはよく似ているが、実は全く違う生き物なのであって、分析に当たってははっきりと峻別しなくてはならない」「根本的に異なる性的嗜好なのだ」とされている点は、沼と同じです。

「陵辱系」マゾヒストが求める身体的虐待

ただ私は、この「峻別」をしただけではあまり意味がないし、逆に誤解が広がってしまうような気がしてなりません。
この区別だけを見たら、同好の方が自分の嗜好を内省して「あ、私は命令されたり、足を舐めたりするよりも、ぶたれたり、鞭打たれたり、拷問されるのが好きだから、「苦痛系」「アルゴグラニア」なのだな」と思ってしまいかねないと思うのですが、そうとは限らないのです。
実際には、「精神的陵辱」を重視するマゾヒスト(沼のいわく「真正(正統)マゾヒズム」に属する人たち)の多くは、先に例示したような、「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持っています。

沼自身も鞭撻を非常に好んでいて、「手帖」にも随所で鞭撻を扱い、第三三章「むちのいろいろ」では「マゾヒズムを論じながら、whipもrodも同じでは、米屋がもちごめうるちを混同するようなものだ。」とまで言っています。
沼がマゾヒズムの原体験を告白する有名な第一〇六章「奴隷の喜び」では、初めて司令官夫人の乗馬鞭に頬を打たれた瞬間を、次のように想起しています。

このとき私は、灼けつくような顔の痛みと同時に、かつて味わったことのない一種の陶酔感に囚えられた。
(中略)
これが私のマゾヒストとしての誕生である。


むちが単なる支配者の象徴アクセサリーではなく、そこから受ける「痛み」が、沼のマゾヒズムの根源と大きくかかわっていることがうかがえます。

谷崎潤一郎はどうでしょうか。
既に述べてきた通り、スクビズムの諸形式を網羅する作家ですが、身体的虐待にも強い好みを示しています、
饒太郎じょうたろう」では、主人公が不良少女のお縫に金を与え、自宅の西洋館で毎日毎日お縫に虐待されてその願望をかなえるのですが、その内容は、麻縄による緊縛、鞭撻、鎖を使った行為など、身体的虐待が中心です
「羅洞先生」にも鞭撻は登場しますし、スクビズムのオン・パレードが繰り広げられる「少年」にも、小刀で肌を切る場面があります。
「恋を知る頃」や「白昼鬼語」には女が男を絞殺する場面もあり、「麒麟」でも凄惨な拷問や刑罰の描写があります。
晩年の「瘋癲老人日記」では、主人公が息子の妻:颯子さつこの足型をとって自分の墓石とすることを計画し、死してなお颯子の足に踏まれる自分の魂のことを下記のように想像しています。

(颯子は)自分ノ足ヲモデルニシタ佛足石の存在ヲ考エタダケデ、ソノ石ノ下ノ骨ガ泣クノヲ聞ク。泣キナガラ予ハ「痛イ、痛イ」ト叫ビ、「痛イケレドモ楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ」ト叫ビ、「モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ」ト叫ブ。


谷崎の観念的スクビズムの集大成ともいうべき場面ですが、やはり「陵辱」(踏まれる)と「快楽」(「楽シイ」)の間に「苦痛」(「痛イ」)が介在しているのがうかがえます。

「精神的陵辱」(スクビズム)を重視するマゾヒスト(真正・正統マゾヒスト)のグループに属しながら、なぜかくも「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持つのか。
そしてそれが苦痛系マゾヒズム(アルゴグラニア)と呼ばれる性的嗜好と、表面的にはよく似ているが根本的に異なるというのであれば、どう違うのか、ここを説明することが重要ではないでしょうか。

「精神的陵辱」への変換

沼は「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」でこの点を、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストのグループは、緊縛や鞭撻を「精神的陵辱の表現」として受け取っているのである、とだけ説明していて、あまり詳述していません。

崇拝対象から受ける身体への物理的な虐待を精神的陵辱(スクビズム)の表現と受け取る(読み替える、変換する)。
この時マゾヒストの心理の中で何が起こっているのでしょうか。

ヒントは「手帖」の別章にありました。
第三六章「手を踏まれて」です。
終戦直後の昭和二一年の暮、東急東横線の車内での出来事の回想です。
当時は混雑時には乗客が座席の上に立つという習慣があったようで、その際座席に座っていた沼は、美しい令嬢に手を踏まれ、その令嬢がそれに気づかなかったため、渋谷駅に着くまでの十分間、沼は令嬢に靴に手の甲を靴の爪先で踏みつけられる感覚を楽しんだ、というもの。

「手を踏まれる」というのは、崇拝対象の肉体が自己の上に「載る」わけですからスクビズム第一類型であり、崇拝対象の「足」に自己の「手」が接触しているという点でスクビズム第二類型にも属します。
「靴底の泥が手の甲一面にべったり押し広げられたのが感ぜられた」という部分は、スクビズム第四類型をもかすかに想起させます。
つまり、スクビズムの願望を満たす理想的な状況といえます。

しかし、それだけではありません。
電車が揺れるごとに沼の手を踏んでいる爪先に令嬢の全体重がかかったり、爪先を支点にして靴が回転したりするので、右手の甲の皮膚が筋肉ごととねじ切られたり、砂と靴底が擦れ合って皮膚を破っって出血し、沼は脂汗をかくほどの痛みを味わいます。
スクビズムの願望を満たすだけであれば、この痛みは必ずしも必要ないはずです。

しかしこの痛みを沼は、

なんと痛くまた楽しい感じであろうか!


と表現しています。
このときの、沼の心理の内省の記述に、陵辱を求めるマゾヒストが身体への物理的な虐待を、どのように精神的な陵辱に読み替えているのかがうかがえるのです。

 私には、何も知らず愉快に連れと談笑している彼女の話の腰を折ること自体が僭越と考えられた。私さえ黙って我慢していればいいのではないか。(中略)そうとっさに決心するとともに、マゾヒスティックな感興が油然と湧いてきた。令嬢は自分の靴の底に男の片手を踏み敷きながら何も知らずに話すのに夢中だ。私の手の痛み、それは彼女の無駄話をやめさせるだけの価値もない。
(中略)
 私は全身全霊をもってこの靴――私を苦しめているこの小さな靴――を愛し、それを穿いている令嬢の足を、下肢を、全身を感じ取り愛した。マゾヒストたる読者諸君は、この時の私の宿命的な心の動きを同情をもって理解して下さるであろう。靴底から受ける肉体的苦痛が痛ければ痛いほど、私はそれを「虐げられている」と感じ、令嬢は万事承知なのだと空想した。彼女は靴が醜い男の手の上にあることを知っているのであった。彼女はどける必要を認めないからどけていないでいるだけであった。彼女の目にはこの醜い私の体などは彼女の靴が踏む床や座席と同じ値打ちにしか写ってないのであった。痛い。だがいったい奴隷の痛みが主人の心に影響するものだろうか。すべきものだろうか……私は空想の中に令嬢を女主人として仰ぎ、この恐るべき隷属の時間の少しでも長く続くようにと念じた。



沼は、手の皮膚が破れようが、筋肉が捩れようが、血が滲もうが、令嬢が気にも留めず自分の手を踏み続けたと考えることで、美しい令嬢の肉体(下肢、足、靴)と「醜い私の体」との価値の絶望的な格差を最大限実感しようとし、痛みを感じる自分の「精神」を、令嬢からほとんど無に等しいほど軽視されている、という感覚を味わおうとしています。
さらに、自分が感じている脂汗をかくほどの「痛み」を、令嬢に「無駄話の中断」あるいは「足をどける動作」をさせるほどの価値は無い、と考えてそれに耐え続けることで、令嬢への崇拝・恋慕の情を、慎ましやかに表現しています。
そして、感じ続けている「痛み」を、「虐げられている」という精神的陵辱の実感に変換しています。

このように、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストが、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、と望むのは、
① 崇拝対象から自己の身体・精神・生命を軽視される感覚を味わう。
② 肉体的苦痛に耐えることで対象への崇拝・恋慕の情を表現発露する。
③ 肉体的苦痛が、観念で作り出した精神的陵辱を実感させる作用をもつ。
という3つの効果によって、身体への物理的な虐待を「精神的陵辱」に変換しているのだ、と私は考えています。

上に示した谷崎作品の例も、すべてこれで説明できます。

また、男性マゾヒズム(Mシチュ)を扱った作品として発表されているネット小説、同人漫画、同人ゲームなどの作品中の、身体的虐待を扱った部分を見ても、そのほとんどはやはり上述の説明に当てはまり、精神的陵辱の一種である、と考えることができます。
(これらの多くがスクビズムと複合的に発露していることを見ても、「精神的陵辱」を重視していることが分かります。)

本当は「陵辱系」では?

一方、「精神的陵辱」に変換せず、純粋に「肉体的苦痛」を受けることをそのまま快楽とする性的嗜好が「アルゴグラニア」ということになります。
これについて「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」では、緑猛比古、青柳謙次、嶽収一という作家に加え、大正時代に実際にあった「小口末吉事件」の矢作ヨネという女性を症例として挙げています。
こちらについては、私は明るくありませんし、作品やウェブサイトでこれは純粋にアルゴグラニアであると示せる例は知りません。

「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望が強く、一見「苦痛系」に思える人でも、実際は「精神的陵辱」を重視している、ということが多いように思えます。

実は、谷崎もそうであったようです。
大正三年の「饒太郎」は谷崎のマゾヒズムの告白の書ですが、この中に「精神上の苦痛よりも寧ろ肉体上の苦痛を与えて貰ひたい」という記述があります。しかし、そんなはずはありません。当ブログでこれまで書いてきたように、谷崎は初期から晩年まで一貫してスクビズムの作家です。沼はこれについて「手帖」第四章付記第二で「彼自身がこのころは真の自覚に達していないと見るべきもの」としていますが、同感です。

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