FC2ブログ

マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

目次


はじめに
マゾヒスト・谷崎潤一郎―真に理解しうる人々による真の理解を目指して

総論
日本のマゾヒズム文学の三大要素
スクビズム総論
苦痛と陵辱
愛情の一方通行
女の忘却
手段化法則と物化倒錯
生体家具の代替性と慈畜主義
セルヴェリズムとパジズム
トリオリズム総論
ミスター・ポストマン―マゾッホと谷崎のトリオリズム
白人崇拝論
明治人の仰ぎ見た西洋人
韓国崇拝論
ドミナの類型学
「思想小説」か「好色文学」か
谷崎潤一郎と沼正三の共通点と相違点

谷崎潤一郎序論
『創造』論~美男美女崇拝
『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹
『嘆きの門』論~華族様の恋

谷崎潤一郎のスクビズム
『少年』論~スクビズムの楽園
『富美子の足』論~やっぱり足が好き!
『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽
『神童』『鬼の面』論~自慰と妄想の青春

谷崎潤一郎のトリオリズム
『饒太郎』論~新たなる快楽の扉

谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー
第一巻 <「象」「刺青」「麒麟」「少年」「幇間」「飆風」「秘密」「悪魔」「羹」「続悪魔」他>
第二巻 <「恋を知る頃」「熱風に吹かれて」「捨てられる迄」「春の海辺」「饒太郎」「金色の死」「お艶殺し」他>
第三巻 <「創造」「法成寺物語」「お才と巳之助」「獨探」「神童」「鬼の面」他>
第四巻 <「恐怖時代」「亡友」「人魚の嘆き」「魔術師」「既婚者と離婚者」「鶯姫」「異端者の悲しみ」他>
第五巻 <「女人神聖」「仮装会の後」「少年の脅迫」「前科者」「人面疽」「金と銀」「白昼鬼語」他>
第六巻 <「嘆きの門」「西湖の月」「富美子の足」「或る少年の怯れ」「秋風」「天鵞絨の夢」他>
第七巻 <「途上」「検閲官」「鮫人」「蘇東坡」「月の囁き」「鶴悷」「AとBの話」他>
第八巻「愛すればこそ」「青い花」「永遠の偶像」「彼女の夫」「お國と五平」「本牧夜話」「白狐の湯」「アヱ゛・マリア」他

谷崎潤一郎作品の二次創作
『悪魔』『続悪魔』の二次創作
『鶯姫』の二次創作
『無明と愛染』の二次創作
『神童』の二次創作

谷崎潤一郎小事典
谷崎潤一郎歳時記
谷崎潤一郎作品に出てくる作家・本
谷崎潤一郎作品に出てくる食べ物

沼正三のスクビズム
『手帖』第三章「愛の馬東西談」~アリストテレスの馬
『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子
『手帖』第二八章「性的隷属の王侯たち」

沼正三の白人崇拝
沼正三の白人崇拝(1)―英伊混血女性との文通

『ある夢想家の手帖から』全章ミニレビュー
第1巻「金髪のドミナ」
第2巻「家畜への変身」
第3巻「おまる幻想」
第4巻「奴隷の歓喜」
第5巻「女性上位願望」
第6巻「黒女皇」

家畜人ヤプー図鑑
プキー

沼正三小事典
『ある夢想家の手帖から』に紹介されている文献
『ある夢想家の手帖から』に紹介されている映画
沼正三の谷崎潤一郎論

戦後の風俗小説
大和勇「金髪少女クララさま」「金髪パーティ」

外国文学
ドミナの言葉遣い―佐藤春夫訳「毛皮を著たヴィーナス」

ネット小説の感想
あらたなる神々の創生―キム・イルケ「韓日ヤプー秘史―国辱マゾヒスティックワンダーランド」感想

新和洋ドミナ曼荼羅
ギリシア神話の女神
ギリシア神話の美女
ヘブライ神話の美女
敗者のトラウマ~戦後日本のジャクリーン崇拝
アルペンスキーの美人選手
イスラエルのアイェレット・シャクド法務大臣の大イスラエル主義
韓国系アメリカ人写真家チョン・ユナの昭和天皇生首アート

その他創作物
文豪対話篇
天国の沼正三
青春の思い出
美男美女賛美論
続・美男美女賛美論
片瀬海岸物語
3月11日
マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために
続・マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために~白昼夢大作戦
女神キャロラインの降臨
・父の車で 1/3 2/3 3/3

H家の人々
プレイボーイクラブ
【詩集ノート】 ※常時追加

その他感想記事
Fetish★Fairyさん新作の感想
中村佑介表紙画の『谷崎潤一郎 マゾヒズム小説集』
月蝕歌劇団公演「沼正三/家畜人ヤプー」の感想
エムサイズさん「椅子になった勇者」の感想
マゾヒズムというドグマ―エムサイズ「超私立!女の子様学園」
「家畜人ヤプー」の二次創作

雑記
今後の編集方針について
HNの由来と作家:白野勝利氏
私のマゾ遍歴
倉田卓次元裁判官死去
伝説のネット批評家:kagamiさんのマゾヒズム論

掲載情報
「女神の愛」第3号
「女神の愛」第4号

※当ブログはもっぱら文学・芸術を扱っています。年齢等による閲覧制限は一切ありません。
※前コンテンツリンク・転載フリーです。バナー↓
banner.jpg

twitter_logo_header.png

タグ : マゾヒズム小説 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー 白人崇拝

Top|谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー 第八巻 »

コメント

はじめまして。
こんにちは!僕、ドラ M男 くん 管理人のドラM男と申します。
当ブログにリンクありがとうございます。
遅れましたが、こちらからもリンクをはらせて頂きました。
どうぞ宜しくおねがいいたします。

ドラM男さん

こんにちは。
相互リンクありがとうございます!
今リンクの詳細を作っているところですので、そちらにバナーを貼らせていただきます。
どうぞ宜しくおねがいいたします。

先日はコメントを頂いたにも関わらず、こちらの不手際でどうもうまく掲載できなかったことをお詫びいたします。なにぶん不慣れなもので、お許しを乞う次第であります。
御ブログ、拝見させて頂きました。鋭い視点と旺盛な筆力に敬服しております。このように特定の観点から谷崎全作品を解析していく、というのは史上初の試みではないでしょうか?
こちらは学生の身分でもあり、なかなか時間がとれないものですから、更新は亀よりも遅いものとなりそうです。しかし、何があろうとも谷崎源氏最終巻をレビューし終わるまでは続けよう、そのように考えております。
今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

ご来訪&コメントありがとうございます!
また、記事をお褒めいただいてとてもとてもうれしいです。
谷崎潤一郎全集解説の道は、お互いに始まったばかりですが、励みにし合いながら続けていけたらうれしいなと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

Re: お元気でしょうか

昨年末にコメントを下さった方、ありがとうございます。
ご返信が遅くなりまして申し訳ございません。
これからまた少しずつ記事を書いていきたいと思いますので、見守っていただけるとうれしいです。
また、あらためてご挨拶に伺います。

はじめまして

マゾヒスティックな小説を書いています。よろしければ、ご覧ください。

浅野浩二さん

コメントありがとうございます!
素晴らしい小説集ですね。
少しずつ読ませていただきます。

はじめまして、
私はペロと申します。
憧れの女性の犬になりたいを念願してやまない変態野郎です。
我が国の中国では、マゾヒズム文学を関して、こんなに素晴らしいブログがひとつもいない。
このブログ大好きです

Re: タイトルなし

ペロさん

コメントありがとうございます!
中国人の方!
海外の方に読んでいただけているというのは本当にうれしいです。
私も犬願望は強くあります。

日本からみると、中国の性愛に関する文化は古来から非常に多様でスケールが大きいというイメージがあります。
谷崎潤一郎も、西洋に次いで、中国とインドの文化に強く憧れていたことが知られています。
また現代SM文化に関しても中国は相当に発達しているという情報が日本では流布されていますが、文学の面ではどうなのでしょうか。

有難うございます

白乃勝利さま。リンクまでしてくださって、ありがとうございます。正直なことを言いますと、私は、谷崎潤一郎のマゾヒズムは、大好きですが、沼正三のマゾヒズムは、私の感性に、ちょっと合わず、昔、読みましたが、興奮しませんでした。

浅野浩二さん

いつもコメントありがとうございます!
当ブログではこれまで谷崎と沼のマゾヒズムの共通点を強調してきましたが、相違点もありますよね。
今後はそのあたりについても書いていきたいと思います。

沼VS谷崎


マゾヒズムにおける谷崎と沼の相違点、意外な、そしてとても興味深い論点ですね。
沼は谷崎を高く評価していますし、両者のマゾヒズムには確かに共通するところが多いのですが、なるほど、そう言われてみれば違う点もあるのかも知れません。

正直申しますと、私は、浅野さんとは逆に、谷崎よりも沼の方が好きで、谷崎作品では「ヤプー」や「手帖」のような深遠な興奮を得られませんでした。
一体それは、沼と谷崎のどのような違いによるものなのでしょうか。

谷崎と沼の相違点についてのご論考、とても楽しみです。

仙人
いつもコメントありがとうございます!

なるほど。
浅野浩二さんは谷崎派
仙人は沼派
なんですね。

私はどちらも好きでとても甲乙つけられないです。
ただ沼が正体不明で、マゾヒズム論以外の思想はわからないのに対して、谷崎はその「真の快楽主義者」としての世界観、人間観にも強く共感します。
自分の「親父」という感じがするのは谷崎ですね。

私はとにかくマゾヒズム文学に対する

谷崎=ソフト
沼=ハード

という短絡的なイメージをぶち壊したい、という思いが、このブログをやっている大きな動機です。
谷崎が好きな方には沼を読んでほしいし、沼が好きな方には谷崎を読んでほしい。
(ただし男性マゾヒスト限定)
そういう思いが強いです。
だから2人の文豪の共通点を強調して紹介してきたつもりです。

私が思う谷崎と沼の一番大きな傾向の違いは、

谷崎=個室に閉じた楽園
沼=宇宙に開いた楽園

ということでしょうか。

「谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー」の「第六巻」がPage not foundになっちゃってますよ~

Re: タイトルなし

ご指摘ありがとうございます。

なにかがひっかかって非公開にされてしまったようですが、公開に戻せました。

質問があります

 聞きたいことがあります。 
 マゾヒストが崇めるドミナが仮に醜悪なもの(肉体面・精神面両方で)と化してしまったとき、崇拝する心は変わらないのでしょうか?

Re: 質問があります

胃さん

コメントありがとうございます!

そこなんです!
私がドミナに求めるのは肉体面の美だけですね。
なんらかの理由でそれが損なわれた人が崇拝対象になることはありません。

「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」と書いた谷崎も同様の考えのはずです。
谷崎は2人の妻を捨てていますし、古いドミナを捨てて新しいドミナを求める願望を繰り返し作品にしています。
「異端者の悲しみ」には「人間と人間との間に成り立つ関係のうちで、彼に唯一の重要なものは恋愛だけであつた。其の恋愛も或る美しい女の肉体を渇仰するので、美衣を纏ひ美食を喰ふのと同様な官能の快楽に過ぎないのであるから、決して相手の人格、相手の精神を愛の標的とするのではない。」とあります。
「金と銀」には「美の国の女神」の言葉として「お前は定めし、今迄にも度び度び私を見た事があるだらう。お前が浮世に生きて居た時分に、お前を迷はした栄子と云ふ女も、…みんな私の影像なのだ。私はお前の美に憧れる心を賞でゝ、真実の国から仮そめの国へ、…自分の姿を幻にして見せてやつたのだ。真実が影像に優つて居るだけ、それだけ私の彼の女たちに優つて居る。仮りの幻の栄子をさへあれ程熱心に崇拝したお前は、今こそ安らかに私の宮殿に仕へるがいゝ。」とあります。
「春琴抄」では春琴が顔に熱湯をかけられそうになる場面を経て佐助が目を潰しますが、これは谷崎がドミナの美が損なわれることをどうしても受け入れられないことの現れです。

マゾヒストにとって、ドミナはあくまでもピュグマリオンのような偶像であり、人間性を崇拝しているわけではありません。
ドミナに宿る「美」を崇拝しているのです。

女主人さまの精神と肉体

 私も「マゾヒスト」ですが、白野さんとは少し違う感覚です。
 私の場合、心から崇拝できる女性の条件としては、精神面(人間性)も重要なんです。

 もっとも、それは世間一般に言う「崇高な精神の持ち主」とか「立派な人格者」という意味ではありません。
 むしろ、世間的な基準で言えば「醜悪」と評価されかねない、「我儘で気位の高い」ご気性の女性、美貌を鼻にかけ、おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをする、驕慢な女性をこそ、女主人さまとして仰ぎ見たいと思うのでございます。
 文学作品で言えば、「春琴抄」のヒロイン、春琴が、まさにそうした気性の女性として描かれていますね。
 
 私は、美しい白人女性に強く惹かれるのですが、その一要因は、彼女らの、鼻筋が通り、眉根凛々しく、つんと澄ました容貌が、いかにも「我儘で気位の高い」女性を想わせるからでございます。

 若い頃は我儘で気位の高かった女性が、年齢を重ね、経験を積む中で、円くなっていくということはあるかもしれません。
 でも、世間が、彼女の気位の高さや、自分勝手な振る舞いを非難しようとも、私にとっては、そうした心もちこそが彼女の最大の魅力なので、自分に対してだけは、驕慢さを失わないで欲しいものだと思います。
 
 肉体的な側面につきましては、私も綺麗な女性にこそお仕えしたいと思います。男性マゾヒズムの一本質は、女性の肉体的な美への拝跪ではないかとすら思います(もっとも、その点につきましては、佳人以外の女性をパートナーとするM男性も少なくないので、断言はできかねますが)。

 ただ、沼もいうように、マゾヒストとは、犬の精神(こころ)を持った男です。そして、犬は、ひとりの飼い主に、終生の服従を捧げる生きものです。
 この女性(おかた)こそ自分のご主人様だと思い定めたら、終生、その女性にお仕えする…というのが、マゾヒストの一つの理想でございます。

 では、その女性の容貌が損なわれてしまったらどうか?
 加齢により、徐々に衰える場合もありますでしょうし、何らかの事故で劇的に衰えることだってあるでしょう。
 その場合も、やはり、その方を終生のご主人さまとして、何ら変わることなく忠誠を捧げ続けたい…というのが、ある種のマゾヒストの夢想でございます。

 「春琴抄」の春琴を襲ったのは、まさにそうした事故でした。
 春琴の美貌が突如として失われたとき、それでも佐助は春琴をご主人さまとして仰ぎ見たいと思いました。
 かつ、「損なわれた容貌を佐助に晒したくない」という、春琴の心中をも慮ったのでしょう。
 春琴を、これまで通り、美しく気位の高い女主人さまとして仰ぎ見たいという強い願望のゆえにこそ、彼は自らの晴眼を毀つという挙にでたのではないでしょうか。

 因みに、このような次第で、私は、確かに、扇情文芸(ポルノ)としては谷崎作品よりも沼作品に興奮を覚えるのですが、マゾヒストの恋愛小説としては、「春琴抄」は「ヤプー」を遥かに凌駕していると思うのでございます。

ドミナの精神と肉体

仙人いつもコメントありがとうございます。

私は「春琴抄」を、マゾヒストがドミナの人格、精神に殉じた純愛ストーリーとは解釈していません。
そしてそのような解釈とともに本作が代表作としてポピュラーになっていることが、もっとも谷崎に対する誤解を広げてしまっているような気がします。
「お師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々と見えてきたのは目しいになってからである」
とある通り、佐助はそれまでの谷崎作品の主人公以上に、ドミナの向こうにある「美のイデア」とドミナ自身を近づけようとした人物であり、その方法が自らの失明なのだと思います。
谷崎作品の主人公にとってドミナは「美のイデア」をこの世に映し出した影像であり人形ですが、佐助にとっての春琴もそれに違いはない、と思っています。

女主人さまの精神と肉体 (2) 佐助の場合

 マゾヒストが崇めるドミナが仮に醜悪なものと化してしまったとき、崇拝する心は変わらないのだろうか?
 私としては、既述のように、一度主従の契りを交わした女主人さまは、ご加齢とともにご容貌が衰えられても、終生、女主人さまとして仰ぎみたいものだと思っています。

 一方で、肉体的な美が全てであって、肉体が美しければ、精神は関係ない。たとえ性的・性格的にドMの女性であっても崇拝できる。でも、肉体的な美が衰えたら、もう崇拝はできない…というマゾヒストがいても不思議ではありません。
 これは、それぞれの好みですから、どれが正しいとか間違っているとかいうものでは勿論ありません。

 沼は、手帖第1章「夢想のドミナ」にも表れている通り、肉体美にもまして精神性に重きを置くタイプなんでしょうね。でないと、「マゾヒストにとっては(肉体美はNo.1の)ヴェヌス以外にもっとふさわしい女神がある」という主題がなりたたなくなりますから。

 沼はともかく、「春琴抄」について、ひとつお伺いしたいことがあります。
 白乃さんは、「佐助が春琴に惹かれたのは、彼女の気性や心もちではない。ただただ彼女の容貌の美しさに惹かれたのだ」とのお考えかと拝察いたします。

 そうだとして、その場合、春琴の美貌が失われたら、もう佐助を彼女に繋ぎとめるものは何もなくなります。
 ですから、春琴の美貌が損なわれた時点で、佐助は春琴をさっさと見限り、作者自身がそうだった(と白乃さんご自身が仰る)ように、古いドミナを捨てて新しいドミナを求めればよいと思うのです。いくら佐助が阿呆でも、世間には美貌の女性がいくらでもいることぐらい知っているはず。なのに、佐助は、春琴を崇めつづけました。

 佐助が、美貌の失われた春琴を、弊履のごとく捨て去り、他の美しい女性に走らなかった理由は、一体なぜだと、白乃さんはお考えでしょうか?

Re: 女主人さまの精神と肉体 (2) 佐助の場合

仙人引き続きコメントありがとうございます。

佐助はたとえば饒太郎のような近代的自由人ではありません。
鵙屋の暖簾分けの薬屋の子で、もともと鵙屋から独立して生きていける存在ではありません。
丁稚から春琴の手曳きとなり、18歳で丁稚も解かれ鵙屋から春琴に「あてがわれた」奉公人です。
いわば侍童(ペジェ)のまま大人になった人間で、後には検校になりますが、事件の時点では春琴に奉仕することしか生きる術を知らない存在です。
佐助には春琴から離れるという選択肢がないのです。
作者がわざわざそういう前提を作っているのです。
その上でなぜ佐助が目を潰したかを考えるべきです。
佐助が仙人のようにドミナの人格・精神を崇拝し、それゆえにドミナの外見的醜さを受け入れられる人であったならば、なぜ目を潰す必要があるのでしょうか。
「お師匠様はお顔の美醜にかかわらず尊いお方でございます奉公人として弟子として主の美醜を問題にすることはおそれおうございます」という心持ちで終世奉仕してこそ人格・精神に対する崇拝でしょう。
失明したことによって自分が独占していた春琴に対する介助の一部を第三者(鴫沢てる)に委任しなければならなくなります。
これは奉仕者としては不本意ではないのでしょうか。
そこまでして失明をする必要があったのは、佐助にとって重要なのが春琴の人格・精神ではなく春琴の美貌だったからです。
事件直後に佐助が見た春琴の顔は「何か人間離れのした怪しい幻影」として残り、「彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避けた。」とあるように佐助には春琴の醜さは受け入れられない、だから目を潰すしかなかったのです。

さて、春琴が佐助に顔を見られるの恐れたのは、鏡を見られない春琴にとって佐助が鏡だからです。
春琴の美貌に対する誇りは佐助の春琴の美貌に対する心中の嘆賞が春琴に伝わることで育ちます。
逆に事件直後「我知らずあと叫んで両眼を蔽うた」佐助の心中も即座に春琴に伝わります。
佐助の幻滅が春琴に伝わったからこそ春琴は他者特に佐助に顔を見られるのを嫌がったのであって、佐助が仙人のようにドミナの外見の美醜を問題にしない心持であったならば、春琴は余人はともかく佐助に顔を見られるのをあそこまで恐れることはないはずです。
佐助の春琴に対する崇拝の本質が春琴の美貌に対する崇拝であったことは誰よりも春琴自身が知っていたのです。
佐助が春琴の醜い顔を見るたびに佐助の幻滅は春琴に伝わり、鏡を見たかのように春琴の自尊心は傷つきます。
だからあそこまで佐助に顔を見られるのを嫌がったのです。

「佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚び起す媒介としたのである」とある通り、佐助にとっての春琴は、他の谷崎作品の主人公にとってのドミナと同じように、美のイデア(アフロディテ)に触れるための「媒介」であり、偶像であり、人形なのです。

ヒロインのキャラクター

白乃様
ご回答、ありがとうございます。

 文学作品の解釈や感想は、人それぞれですから、正否を論ずるようなものではございません。
 ただ、私自身は、白乃さんと議論を重ねることで、マゾヒズムについての考えを深めることができました。そうした意味で、文学作品の解釈を巡る、結論の出ない議論にも、意義のあることかと存じます。

 さて。
>仙人のようにドミナの外見の美醜を問題にしない心持であったならば
…とありますが、私が、「ドミナの外見の美醜を問題にしない」どころか、
「肉体的な側面につきましては、私も綺麗な女性にこそお仕えしたいと思います。男性マゾヒズムの一本質は、女性の肉体的な美への拝跪ではないかとすら思います」ということは、5月13日当欄に記しました通りです。
 
 問題は、「では肉体的な美が全てか?」ということです。
 白乃さんと同じように、「肉体的な美が全てだ」と考え、感じる方たちもいらっしゃいます。
 一方、私はと言えば、「女主人たるに相応しい条件とは、肉体的な美も大事だが、それだけではないだろう」と考え、感じています。

 谷崎は、ナオミに「自由奔放な淫婦」、春琴に「驕慢な性悪女」というキャラを付与しました。

 譲治や佐助は、彼女らが飛びきりの美貌であるがゆえに、淫婦・性悪女である<にもかかわらず>、彼女らの虜になったのでしょうか? 
 それとも、彼女らの美貌に加えて、淫婦・性悪女である<からこそ>、その虜となったのでしょうか?
 私は、後者だと思います。
 谷崎が彼女らを、わざわざそのようなキャラの持ち主として設定したのは、世間一般の「人格者」の対極にあるそうした人柄こそ、実は、マゾヒストとしての谷崎がドミナに求める「好ましい人格」だからではないかと考える次第です。

 ご指摘の「佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚び起す媒介としたのである」の2~3行前に「もし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそういう人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢な春琴を考える」と記されています。
 佐助にとって「驕慢な春琴」であることは、彼女を主と仰ぐ上で不可欠な要素であって、理想化された「観念の春琴」とは、「美貌のみならず、驕慢な性格をも具えた春琴」なのではないかと思われてなりません。

 なお、佐助が目を潰した時、春琴は37歳、佐助は41歳でしたから、二人が出会った当初ならともかく、「事件の時点では春琴に奉仕することしか生きる術を知らない存在」とは言えないと思われます。
 佐助は、「春琴から離れるという選択肢がない」から、仕方なく春琴に仕えたのでしょうか? むしろ、春琴から離れようと思えば離れられるが、自ら進んで春琴の下僕でありつづけたからこそ、物語として美しいのではないかと思います。

Re: ヒロインのキャラクター

仙人引き続きコメントありがとうございます。

「谷崎潤一郎がドミナに求めるのは肉体面の美だけ」という発言は取り消します。
確かに谷崎作品のヒロインは驕慢・淫乱・性悪・残酷な悪女が多いです。
これが谷崎がドミナに求めている「好ましい人格」です。
「饒太郎」で主人公が富豪の未亡人蘭子から不良少女のお縫に乗り換えたのも、容姿よりも性格がポイントでした。

私が言いたかったのは、崇拝の「対象」は何か、ということです。
「饒太郎」の「理論編」である前半部分では
「今かりに二人の美人があって、一人は善人の性格を持ち、一人は悪人の性格を持つとするね。其の場合に孰方が餘計美人に見えるかと云えば、必ず後者―悪人の方が遥かに立ち勝って見えるものなんだ。つまり善人よりも悪人の性格の方が、「美」を遺憾なく発揮するのに適当して居る訳なんだ。」
とあります。
崇拝の対象はあくまでもドミナの肉体面の「美」であり、それを「遺憾なく発揮するのに適当して居る」ドミナの性格が「悪」なのです。
驕慢・淫乱・性悪・残酷といったドミナの性格・人格・キャラクターの「悪」を崇拝の対象にしているのではありません。

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://victoryofwhite.blog114.fc2.com/tb.php/10-ada43e91

まとめ【目次】

・はじめに総論・日本のマゾヒズム文学の三大要素・スクビズム総論・苦痛と陵辱 ・トリオリズム総論 ・谷

Top

HOME

このブログをリンクに追加する

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。