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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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谷崎潤一郎のトリオリズム(1)―『饒太郎』論~新たなる快楽の扉


告白の書 
今回は、谷崎が自分の性癖と文学の本質を洗いざらいぶちまけた、自伝的小説『饒太郎』をご紹介したいと思います。
谷崎のマゾヒズムおよびマゾヒズム文学の歴史を理解する上では、絶対に読む必要のある本当にすごい作品です。
発表は大正三年、石川千代と最初の結婚をする前の独身時代の作品で、おおまかには初期の作品といっていいでしょう。本作は、文壇デビュー直後に瞬く間に文壇的地位を確立した当時の谷崎の生活と、そこを起点に、半生を振り返り、自分の性的嗜好についての理論と実践をぶちまけている告白の書です。

主人公は、一年半ほど前から「文壇に盛名を馳せて」いる、泉饒太郎じょうたろうという名の作家です。
(余談ながら、この「泉饒太郎」という人物名は、谷崎の敬愛する文豪:泉鏡花の本名:泉鏡太郎からとられていると思われますが、鏡花をモデルにした人物ではなく、谷崎自身をモデルにした人物です。)
饒太郎の性的嗜好についてははっきりとこう書かれています。

つまり正直に簡単に打ち明けて了えば、彼は生来の完全な立派な、そうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


―即ち彼はただに異性から軽蔑される事を喜ぶのみならず、出来るだけ冷酷な残忍な取り扱いを受けて、むしろ激烈な肉体的の痛苦を与えて貰う事を、人生最大の歓楽として生きて居る人間なのである。


饒太郎は自らの性的嗜好について、「恐らくその性癖は彼の生まれない以前から、運命付けられて居たのかも知れない」と、先天性のものであることを推測しています。
饒太郎がそれを初めて自覚したのは、「まだ六つか七つの幼年時分」(当時は数え年が一般的)に、歌舞伎を観劇した際、公暁に切り殺される三代将軍源実朝を「非常に羨ましく」感じたときです。
饒太郎は学校の「腕力の弱い容貌の美しい或る友達」が公暁役になり、自分は実朝役になって切り殺される光景を想像し、次のような体験をします。

までかつて経験した事のない快感が、一種不思議な不可抗力を以って胸の奥にどよめくのを覚えた。


同好の者であれば皆覚えのあるこの感覚。
最初に自覚した年齢は人それぞれ違うでしょうが、やはりかなり幼少のときからこの快感を知っていた人が多いのではないでしょうか。
谷崎はマゾヒズムという性癖が先天性のものであると了解していたようです。

妄想の日々
饒太郎のマゾヒズムは十一、二歳になるころには、いよいよ盛んになります。

惨酷にいじめられる聯想れんそうなしには生きて行くことが出来なくなって、始終うとうとと荒唐無稽な芝居の筋書きを胸に描いては人知れず恍惚エクスタシイの境に入った。


「筋書き」とはたとえば、隣の家の「お芳っちゃん」という十四、五歳になる娘のお供をして無人島に配流され、「一生自分は忠実な奴隷となって娘の頤使いしに甘んじつゝかしずいて居る場面」だったり、「おせん」という小間使いの娘に「絞め殺されて、眼球を抉られ四肢をばくせられ、死体となってたおれて居る自分の姿を想像」したり(この妄想は戯曲の傑作「恋を知る頃」に結実します)、というものです。
饒太郎が妄想の中で崇拝したのは「身分の高い、美しい男女」であったり、逆に「下賎な人間にいじめられるほうが却って余計面白い」と感じることもありました。
後に発表される、少年時代を回想した自伝的小説「神童」と「鬼の面」では、ちょうどこのころから自慰行為の快楽に目覚め、昼夜を問わず自慰にふけったことが告白されていますから、当然これらの妄想は自慰行為を伴ったものだと考えられます。
鶏と卵のように、妄想が自慰を産み、自慰が新たな妄想を産んだことでしょう。
中学から高校、大学と進学して年を経るにつれ、饒太郎の性癖は「ますます著しく、だんだん彼の頭の働きの全部を占領するように」なっていきます。

性癖の正体―クラフト・エビングとの出会い
大学一年生のときには、饒太郎は「クラフトエビングの著作」に出会い、自分と同様の性癖を持つ人々が世界中に存在することを知ります。

此の書物の教える所に依れば、彼が今迄胸底深く隠しに隠して居た秘密な快楽を彼と同様に感じつゝある者が、世界の至る所に何千何萬人も居るのである!それ等の人々のコンフェッションや、四方の国々のprostituteの報告を読めば、彼等がどのくらい細かい点まで全然饒太郎と同じような聯想れんそうに耽り、同じような矛盾に悩まされて居るかと云う事は、怪しくもまざまざと曝露されている。


自分の性癖が自分のものだけではなく、「同好の士」が世界中にいるのだということを知ったときの感動。
現代のマゾヒストであれば相当早い段階でこれを知ることができますが、この時代にあっては、大読書人であった谷崎であったからこそ、たどり着けた真実でした。

さらに饒太郎が「クラフトエビングの著作」に出会って感動したことが二点ありました。
一つは、ルソーやボードレールがマゾヒストであったこと、ダンテ、シェークスピア、ゲーテの作品にも「著しくその傾向」があること、すなわち西洋ではマゾヒストが文豪として多く世に立ち、マゾヒスムが文学になっていることを知ったことです。

もう一点は、西洋には、マゾヒストの欲望をかなえる性産業が確立されている、ということを知ったことです。

維納ウィーンでも巴里パリでも伯林ベルリンでも欧州の著名な大都の夜の巷に色を鬻<ひさ>ぐ娼婦の間には、Boot-fetichismとかFlagellationとか、その外さまざまのMasochismに関する悪戯が、物好きな色恋の一種の形式として普通に行われて居るらしく思われる。


※Flagellationは鞭撻愛好

西洋の女性―殊にProstituteの嫖客に接する態度がいかにも活發で刺戟的で、微温的な婦人の夢想だもし難い強烈な色彩と、複雑な手段と進歩した仕組みの下に、いろいろの形式でありとあらゆる歓楽の注文に応ぜんとする露骨な気風の存する事であった。



実践と著作
ここにいたって、饒太郎の自慰用妄想は、二つの方向で饒太郎の脳内を飛び出し、外に発露していくことになります。 
一つの方向は、「著作」です。
饒太郎は自慰用妄想をそのまま小説にして文壇に挑みます。

彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分はMasochistenの藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った。


彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない


これは本当にすごいことです。
西洋においてマゾヒズムが文学になっていることを知ったといっても、それを当時の日本で理解していた人はほとんどいません。
誰にも理解されないかもしれない、奇異の目で見られるだけで終わるかもしれない、弾圧の対象になるかもしれない、この国にかつて誰も通ったことのない道を「此の世に生きる術」とすることを、ここまで自信満々に決意する。
そして結果として、西洋のマゾヒズム作家の誰も得たことのない地位を日本の文壇に築いてしまった。
こんなすごい人が「先輩」であり、「祖」であることを、本当に誇りに思います。

もう一つの方向は、「実践」です。
饒太郎は妄想と自慰だけでは飽き足らなくなります。

何とかして一度はその想像を実際に経験してみたい。美しい婦人の手に依ってならば、どのような残忍な苦悩を享けても、あるいは人知れず殺されてしまっても差支えないから、一生のうちに一度此の肉体を虐げて貰いたい。


という希望を抑えきれず、ついに妄想を実践に移していきます。
谷崎は徹底的な実践派のマゾヒストです。
饒太郎がは著作と実践の関係についてこう言います。

おれのほんとうの創作は著述よりも実生活にあるのだ。己の芸術家たる所以ゆえんは、己のライフ其の物に存して居るのだ。


小説の上でその美を想像するよりも、生活にいてその美の実態を味わう方が、彼にとって余計有意味な仕事となって居る。


とあるように、谷崎にとって実践は著作のための手段ではなく目的であり、著作はその実践の記録するために生まれた副次的なものに過ぎません。
青春時代は「妄想」と「自慰」が鶏と卵となっていたのですが、作家となってからは、「実践」と「著作」が鶏と卵となり、果てのない連鎖を引き起こしていきます。

しかし当時の日本において、この「実践」は容易ではありません。
西洋のようにマゾヒストの願望を理解する「Prostitute」(娼婦)のいない東京において饒太郎は、さまざまな階級の娼婦に、余分な金を与えて頼んでみますが、「そんな恐ろしい事は出来ない」と言われ、応じてもらえません。

「どうぞ私をひどい目に遇わせて下さい。蹴ろうとなぐろうとふん縛ろうと勝手にして、死ぬような目に遇わせて下さい。」
酔いに紛れて彼は屢々しばしばそんな事を頼んで見たが、可笑しがったり気味悪がったりして真に受ける者は一人もなく


そこで饒太郎はこう考えます。

自分の気に適った女を捜し出して、次第々々に豪胆な、残忍な性質を具備するように教育するのが一番捷径しょうけいである。


この「自分好みのドミナを育成する」という発想は、谷崎の実践の基本姿勢で、これが後に「捨てられる迄」を経て大傑作長編「痴人の愛」に結実します。

若く美しい富豪の未亡人:蘭子と懇意になった饒太郎は、蘭子を理想のドミナに育成しようと試みます。
饒太郎は道化のようにペコペコと卑屈な態度をとり、自分を卑下して蘭子を賛美し、貞淑だった蘭子が次第に増長していくのを待ちました。
しかし蘭子は、ピストルで饒太郎を脅したり、平手で顔を叩いたりするまでには変化しますが、饒太郎に惚れてしまったがゆえに、それ以上饒太郎を虐待することが出来ません。
「男は女を愛し敬い、女は男を虐げ卑しめる」関係を望む饒太郎は、蘭子に愛想をつかせてしまいます。

理想のドミナ
饒太郎は友人の待合(売春斡旋業者):松村から、おぬいという娘を紹介されます。
お縫が実は相当に素行の不良な少女だと知って興味を抱いた饒太郎は、お縫を一目見ると激しく心を惹かれ、松村に大金を収めてお縫を愛人にします。
デートをしてもなかなか心を開かないお縫に対して饒太郎は、蘭子にしたような時間をかけた育成を断念し、「相手が仮面を脱ぐのを待つ迄もなく、此方から進んで、自分が憐れむべきMasochistenであると云う秘密を了解させ、邪悪なる妖婦の本領を自分の前に発揮するように頼んでみる」事を決意します。
蘭子のように打ち解けた関係を形成してしまってからでは、相手の女は自分を虐待するのが難しくなると考えたのです。
饒太郎は自分のパトロンである富豪に借りている邸宅の西洋館にお縫を連れ込み、一気に決意を実行に移します。

「どうぞお願いだから、僕をお前の乾分こぶんのように取り扱っておくれ。乾分で悪ければ奴隷でもいゝ。飼い犬でもいゝ。餌食でもいゝ。」
「たとえばこゝに麻縄と鞭があるね。一番僕を赤裸にして、此の麻縄でふん縛って、鞭でピシピシ打って貰いたいんだ。ねえ、唯其れだけで五拾円にもなるんだから、何でもない事だろう。」
「今となればもう何も彼も白状するが、僕は性来、女に可愛がられるよりも、いじめられるのを楽しみにする人間なんだ。
お前のような若い美しい女たちに、打たれたり蹴られたり欺されたりするのが、何よりも嬉しい。出来るだけ残忍な、半死半生な目に遇わされて、血だらけになって、うなったり悶えたりさせてくれれば、世の中にこれ程有り難い事はないんだ。」


饒太郎の懇願を黙って聞いていたお縫は金を受け取ると、「そんなら裸におなんなさいまし」と命じ、要求どおり饒太郎を麻縄で俯きに縛り上げてしまいます。
それを仰向けにするときも、「足で蹴返してくれゝばたくさんだ」という要求のとおりにし、饒太郎の用意していた麻薬を嗅がせて気絶させ、それを放置して出て行ってしまいます。
お縫はまさしく饒太郎が捜し求めていたドミナでした。
その後は毎日西洋館で鞭や鎖を使うのも厭わず饒太郎の要求をかなえていき、対価としてさんざん金を巻き上げていきます。

お金があるうちだけは、奴隷にでも何でもして上げてよ。それから後は知らないけれども。


といいのけるお縫は、まさしく理想のドミナです。
お縫と一致する不良少女の娼婦は、本作とほぼ同時期の出来事を別の側面から回想した「異端者の悲しみ」にも登場しますから、谷崎が実際に探し当てたドミナがモデルになっているものと思われます。

スクビズムの楽園
西洋館には饒太郎とお縫以外には女中や使用人も含めて立ち入ることがありません。
「何かが始まる時には、必ず四方の窓掛けが下がって、扉の錠が卸されるので、外から様子は解らない」状態になります。
この西洋館は、外部から物理的に隔絶されて、外の社会とはまったく異なった秩序が形成され、マゾヒストの願望を思うさまにかなえられる夢空間となります。
『少年』の塙の屋敷や、『富美子の足』の七里ガ浜の別荘と同じ、「スクビズムの楽園」です。
この楽園の中で行われていた「何か」の内容は、詳らかに描写はしてくれていませんが、マゾヒストのみなさんであれば容易に、またそれぞれの好みに合わせて想像することができるでしょう。
作品ではそれをかすかに示唆する記述がなされています。

突然室内から不思議な音響……ぴしり、ぴしり、と、あたかも鞭でなぐって居るような音響が洩れる事に気が付いた。すると翌日また一人が、ちゃりん、ちゃりんと鎖を引き擦るような響きがして、同時に床板をどたんばたんと激しく何者かゞ転がり廻って居る音を聞いた。


饒太郎はお縫のような理想のドミナをそう何度も得ることは難しいことを悟っていため、「今度のような快楽は一生に一度の快楽である」と考えて夢中になってお縫との行為にのめりこみます。

マゾヒストは快楽の追求者です。
妄想と自慰、そして実践。
マゾヒスト向けの風俗産業のない時代・国に生まれた饒太郎は、自らドミナを求めて蘭子を育て、それに飽き足らなくなるとお縫を得てついに理想の状況を手にしました。
饒太郎がたどり着いたスクビズムの楽園。
これはマゾヒスト・饒太郎の到達点のはずです。
しかし、一度理想を手にしてしまうと、しだいにそれでは飽き足らなくなってきてしまうのがマゾヒストです。
手にした理想を失いたいという願望、更なる深みへ落ちて行きたいという願望が、しだいに生まれていきます。

饒太郎は、お縫との行為を邪魔するあらゆるものを遮断する理想の楽園たる西洋館へ、自ら「侵入者」を迎えることで、新たなる快楽の地平への扉を開いてしまいます。

新たなる快楽の扉
饒太郎には、庄司という美しい青年の友人がいました。
庄司は最初、饒太郎に憧れて弟子を志願してきたのですが、庄司の美貌が気に入った饒太郎は、弟子ではなく友人として庄司と付き合うことにします。
庄司はある大きな料理屋の息子で、相当に裕福です。
そして偶然にも、お縫はかつて庄司の家で奉公しており、そのころお縫と庄司は恋仲だったのです。
お縫は庄司の家で盗みを働き、追い出されて松村に引き取られていたのでした。
饒太郎と関係を持つようになって、自由と金を手にしたお縫は、庄司とよりを戻そうと手紙を出します。
饒太郎の前で庄司によって暴露にされたその手紙の内容が、たまらなく刺激的です。

わたくしは毎日毎日邸の西洋館へ這入り込んで一日その男の相手を勤めて居ります。
明後日も午後の一時から夕方の六時ごろまで其処へ参りますから、帰りに是非是非お目にかゝりとう存じます。
(中略)
この男は少し気違いじみた人間で何でもわたくしの云うなり次第になるんです。
お金でも着物でも、寄こせと云えばいくらでも寄越すのです。
一日でも顔を見せてやらないと、すぐにわたくしの所まで迎いに来るくらい夢中になって居ります。
此の泉と云う人はほんとに奇妙な男でございます。
何でもわたくしにひどい目に遇わして貰えば其れが嬉しいそうで、毎日毎日たゞわたくしに打たれたり蹴られたりして喜んで居ります。
それ故わたくしは此の人にどんな無理な事でも命令することが出来るのでございます。

…ですから此の男に麻酔を嗅がせて眠らせて置けば、毎日でもあなたとゆっくり御話をする時間がございます。
…今に此の人は私のために裸になって了うかも知れません。
…若旦那様、私がこんな悪魔になって了った事をお許し下さいまし。
(中略)
もう此の頃は毎日毎晩、あなたのお美しい、絵のようなお顔が眼の前にちらちらして居りますのよ。


いやはや…すごいですね。
すごい。
私はこのお縫が庄司に宛てた恋文の中に、トリオリズムの快楽の真髄のすべてが見事に書き込まれていると思います。
一つは、饒太郎の感情が完全に100%お縫に向かっているのに、お縫の感情は完全に100%庄司に向かっている、この「感情の一方通行」。
二つ目は、同性である庄司と饒太郎のお縫から見た男性的魅力=人間としての価値の圧倒的な差をダイレクトに味わわされること、すなわち「美尊醜卑」のヒエラルキーを痛感させられることです。
三つ目は集団心理による加害行為の過激化です。
生来性悪で残忍なお縫ですが、饒太郎の性癖を庄司に暴露して庄司という仲間を自分の側に加えることで、集団心理を得て、饒太郎と一対一の状況よりも饒太郎に対する加害行為の精神的ハードルが下がっていることがうかがえます。
どんな世界でも3人いればイジメが成立しうるのと同じです。
強者たるお縫にさらに多数者としての増長が加わり、弱者たる饒太郎はさらに少数者としての惨めさを味わうことになるのです。
四つ目には、饒太郎を庄司との逢瀬に利用しようする「手段化」です。
金銭のみを媒介にした隷属関係とトリオリズムが非常によくマッチする(谷崎作品にはこれが非常に多いです)のは、貨幣が人類が生み出したすべての「目的」を実現しうる究極の「手段」だからです。

このお縫の手紙は、あえてドミナの側の視点から見ることで、トリオリズムの快楽の真髄を非常に官能的に詰め込んだ見事な一節ですね。

さて、饒太郎は手紙の暴露を受けて、自分とお縫の二人だけで築き上げてきたスクビズムの楽園である西洋館へ、庄司を誘い込みます。
このときの心理描写に、トリオリズムという新たなる快楽の地平への扉を開けんとする瞬間の、マゾヒストらしい「落ちていく悦び」が見事に表現されています。

青年が強者の形を備えれば備える程、彼はますますMasochismの原則に従って壓倒あっとうされる事を喜ぶように傾き始めたのである。
(中略)
饒太郎は青年を案内して西洋館へ這入って行った。
彼の胸の中には、或る新しい楽しみが密かに計劃けいかくされて居た。



そして物語は、最も美しいクライマックスへと展開します。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつも通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。
我にかえった一二分間、しきりにぱちぱちと眼を瞬いて居たが、やがてぱっちりと瞳を据えると、殆ど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。
あの青年と娘が睦じそうにソオファへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。
(中略)
娘は面白そうに笑った。
「庄司君、僕は毎日斯う云う目に会わされて居るんだよ。どうだい、僕の気違いだと云うことが解ったかい。」
(中略)
「君とお縫のためならば、どんなに侮辱されても平気なもんだ。だから其の代り、二人とも僕を捨てないでくれ給え。僕は君たちの奴隷となって使って貰えれば結構なんだから。」


この構図!
スクビズムとトリオリズムの見事なミックス。
上位者と下位者のコンポジション。
谷崎の最も得意とする描写です。
上位者の顔と下位者の顔の位置関係、その隔絶を辛うじて媒介するかのような上位者の足。
着衣の上位者と全裸の下位者。
完全に自由な上位者と完全に自由を奪われた(委ねた)下位者。
短い描写で見事に表現していますね。
本当に官能的で美しいです。

谷崎のマゾヒスムは、常に西洋崇拝とトリオリズムとともにあります。
一度新しい快楽の扉を開けてしまった者は、なかなか元の部屋に戻っては来れません。
本作は谷崎が自身の性癖を余すとことなくぶちまける中で、トリオリズムという快楽の扉を開けた瞬間のあの恐ろしく、それでいて包み込まれるような衝動を、見事に表現した作品です。
繰り返しになりますが、必読中の必読です。

タグ : 谷崎潤一郎 マゾヒズム小説 三者関係 寝取られ

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コメント

『手帖』で紹介されていた美味しそうな谷崎作品は、若い頃、図書館で一通り目を通したのですが、内容を忘れているものが多いです。発情場面ばかり捜し求めて、まともに筋を読んでいなかったのですw。白乃さんの解説を拝読すると、読み直してみようかという気になります。2016年に谷崎作品の著作権が消滅すれば、青空文庫などで手軽に読めるようになるのかもしれません。

鳥尾さん

いつもコメント本当にありがとうございます。
今年もよろしくおねがいします。

実は私も全集を持っておらず、図書館で借りています。
そろそろ買いたいですね。
2016年以降は一気にスキャンやテキストのアップが進むと思いますので、「マゾヒストによる谷崎研究」が活発になることを願います。
私も書くの楽になりそう…

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