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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

手段化法則と物化倒錯

手段化法則
沼正三は『ある夢想家の手帖から』第一一九章で次のように「手段化法則」を定義づけています。

被虐者が他の人間の手段(道具、材料)とされる程度が高いほど、マゾ的昂奮が大きくなる


虐待されることを望むはずのマゾヒストですが、実は虐待者側の虐待行為の「動機」について、一種の「こだわり」があります。
マゾヒストが崇拝対象に虐待される際、その虐待行為の原動力がなんらかマゾヒスト自身にある、ということは、マゾヒストにとって喜ばしいことなのか、という問題です。
虐待者の側の復讐、憎悪といった負の感情が虐待行為の原動力なのであれば、それは相手の人格を認めていることになります。
その相手を虐待することが目的なのですから、虐待者は相手に代替不可能なある意味での価値を認めているということです。
これは、「愛情の一方通行」を求めるマゾヒストとしてはなにかものたりないものを感じます。

「愛情の一方通行」の究極形は、崇拝対象による「無関心」「忘却」です。
では、「愛情の一方通行」を実現したまま、崇拝対象から虐待を受けるためには、崇拝対象からどのような動機で虐待してもらえばよいのでしょうか。
崇拝対象が自己に対する関心をゼロに保ったまま、自己に対する虐待という「行為」を引き出す。
そのためには、なんらか別の「目的」を崇拝対象に付与しなければいけない。
その目的を達成するための過程として、自己への虐待行為を位置づければよい。
これが、マゾヒストが手段化を求める所以です。

同章で沼はカントの次のような道徳論を紹介しています。

「汝の人格及び他のあらゆる者の人格における人間性を、常に目的としても取り扱い、決して手段としてのみ取り扱わぬように行為せよ」(『道徳の形而上学の基礎づけ』)


カントは歴史上のさまざまな人間性の侵害を観察して、その本質が人間の「手段化」におることを見抜いていたんですね。

谷崎潤一郎のマゾヒズムは徹底的にこの手段化法則に貫かれています。
それは、文壇デビュー作『刺青』のラストに簡潔に、明快に書かれています。

お前さんは真先に私の肥料こやしになったんだねえ


美しく咲き誇る花に養分を提供するためだけの存在である肥料は、まさしく「手段」の象徴です。

目的の極小化
さて、手段化法則が「愛情の一方通行」の一つの完成形であり、崇拝対象からの自己に対する感情を(正負を問わず)極小化しようとするマゾヒストの願望の現れであるのあらば、崇拝対象が自己を手段として達成しようとする「目的」が、崇拝対象にとって代替不可能な重要なものであるよりは、いくらでも代替可能でできるだけ軽微な「どうでもいい」ものであるほうが、効果が大きくなる、ということになります。
「目的」が、莫大な財産や地位を得るとか、破滅的な窮地を脱するだとか、愛した人と結ばれるだとか、崇拝対象の人生を左右するような重要なものであっても、その達成のために自己の肉体、精神、生命が手段とされることはマゾヒストの快楽につながります。
谷崎の『恋を知る頃』や『お才と巳之助』、『手帖』に紹介されているゾラの『一夜の愛のために』、白野勝利の『現代の魔女』やフランス人女性に財産を贈与したアルジェリア人のエピソードは、これにあたります。
しかし、その「目的」が、快適に休むためだとか、ほんの少し手足を動かす労を省略するだとか、パーティーの余興にするだとか、単なるひとときの暇つぶしであるとか、崇拝対象にとって軽微で程度の低い目的の達成のために、自己の肉体、精神、生命が手段とされることは、相手の自己の「軽視」の度合いが高まり、さらに強い快楽をマゾヒストにもたらします。

物化倒錯との親和性
崇拝対象から「物」として扱われる物化倒錯は、手段化法則と最も親和性のあるスクビズムの一類型です。
単に路傍に転がる物として扱われるのでもよいのですが、そのなかでもマゾヒストは(あつかましくも)崇拝対象との「関係」を求めてします。
そこで、物は物でも崇拝対象の利便という「目的」に供する「手段」たる道具・家具となることで崇拝者との「関係」を構築することになります。
谷崎の『少年』は、まさしく「スクビズムのカタログ」ですが、そこにもクライマックスで物化倒錯が現れます。

「お前は先仙吉と一緒にあたしを縁台の代りにしたから、今度はお前が燭台の代りにおなり」


「腰掛けにおなり」と云えば直ぐ四つ這いになって背を向けるし、「吐月峰はいふきにおなり」と云えば直ちに畏まって口を開く。


『魔術師』の主題も物化倒錯で、コーカサス種族にも見える両性具有の美しい魔術師の魔術によって、観客が自らの望みどおり、魔術師の玉座の椅子に敷かれる敷物や、魔術師を照らす蝋燭を支える燭台や、魔術師の履物に変えられる物語です。

ご存知のとおり、『家畜人ヤプー』は、白人種が有色人種を徹底的に手段化した世界の物語です。

ヤプーは単なる家畜ではなく、器物であり、動力エネルギーでもある。生体家具として生産されるものは生まれながらにして器物性を帯びている。生体とはいっても本質は家具なのである。ヤプーの登場が家畜と家具との概念的区別を曖昧にしてしまったのだ。
ただ単なる家畜でなく、一方に器物であり動力エネルギーであり、各種各様の使用形態のすべてがヤプーyapoo(中略)の名に総称されている。
知性ある家畜、知能を持った家具……(中略)生活体系にヤプーの肉体と精神を織り込んでしまったイース社会がヤプーを使用しなくなることは考えられない。
かくてヤプーの将来には唯一の道が続いている。これまでと同じく今後も永久に人間(白人)社会の維持と発展のための材料や道具となること、これであった。白人の楽園パラダイスイースの文明の栄華の花を咲かせるための肥料として生産され愛用されてゆくのが、今後のヤプーの運命なのである。(第四章「ヤプー本質論」)


「家畜人」という言葉のイメージから、畜人犬ヤップ・ドッグ畜人馬ヤップ・ホースが注目されますが、彼らはヤプーの中でも特別な存在で、ヤプーという種族の本質は、白人から見ればいくらでも代替可能な、消費の対象としての器物であり、動力エネルギーなのです。
『家畜人ヤプー』は、「手段化法則」を本質とする沼正三のマゾヒズムが結晶した物語です。
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コメント

最近の白乃勝利さんの記事たちに共感されて読めて本当に嬉しいです。

「目的の極小化」
特にこの部分で大きく共感します。
悲惨の程度と快楽が比例するというマゾヒズムの根本にあってこれだけ強力に悲惨な部分は探し難いと思います。

いい記事よく読んで行きます。

whiteさん

いつもすばらしいコメントありがとうございます!

余興、気晴らし、暇つぶし…
些細な目的のための手段にされる悲惨さは、大きな快楽につながりますね。

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