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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

ミスター・ポストマン―マゾッホと谷崎のトリオリズム

レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」に、次のような有名な場面があります。
(以下すべて種村季弘訳)

 ワンダが呼び鈴を鳴らす。部屋に入る。
「この手紙をコルシーニ公爵さまのところへ」
私は市中まで馳せつけて、公爵に手紙を渡す。燃えるような漆黒の眼の若い美男である。そして待ち焦がれている彼女に返信を持って帰る。
「どうしたの?」悪意のこもった眼も下眼使いに彼女が訊ねる、「顔が真蒼だよ」
「いえ、何でもありません、ご主人さま、すこしばかり道を急ぎすぎましたもので」
 昼食の席では公爵が彼女の横にすわり、私は二人の給仕役という劫罰に服する。その間二人は巫山戯合って、私という人間などまるで眼中にないようだ。一瞬、私は眼前が真暗になり、ボルドー葡萄酒を公爵のグラスに注ぐときに、公爵のテーブルクロスと彼女の夜会着ローブに酒を注ぎこぼしてしまう。
「何てドジな」ワンダが叫んで私に平手打ちをくれ、公爵が声を上げて笑う。彼女も声を合わせて笑い、私は顔面にかっと血が上る思いである。


トリオリストにとっては血が沸き立つような甘美で刺激的な伝説的場面です。
「ドミナの恋人に恋文ラブレターを届ける」というのはトリオリスト非常に好まれるシチュエーションですが、トリオリストの「東の横綱」である谷崎潤一郎も、このシチュエーションを猛烈に愛好していました。
1913年(大正2年)の「恋を知る頃」、1916年(大正5年)の「鬼の面」そして1950年(昭和25年)の「少将滋幹の母」の3作品にこのシチェーションが描かれています。
「毛皮を着たヴィーナス」の上記場面と、この谷崎の3作品に描かれる場面。
これらの「郵便屋さんミスター・ポストマン」の場面の描かれ方を比較することで、マゾッホと谷崎のトリオリズムの違いがよくわかります。

「毛皮を着たヴィーナス」のトリオリズム―奴隷願望セルヴェリズム的トリオリズム
「毛皮を着たヴィーナス」は、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー(奴隷名は「グレゴール」)とワンダ・フォン・ドゥナーエフの「痴人の愛」の記録です。
よく知られている通り、本作はマゾッホがアンナ・コトヴィッツ夫人や女優ファニー・ピストールら数多くの女性との実践体験を作品化したものです。
ゼヴェリーンとワンダはともに生活感を感じさせない裕福な貴族です。
二人は互いの欲望を満たすため、自由な意思に基づく「契約」によって主従関係を結びます。
マゾヒストであるゼヴェリーンとサディスティンであるワンダの利害の一致。
これが前提にあって、関係を支えているのはあくまでも西洋人らしい個人主義です。
ワンダが第三者の男性と関係するときも、常に「ゼヴェリーンを嫉妬させる」という別の目的が見え隠れします。
そしてその通りにゼヴェリーンは甘美な嫉妬と屈辱に悶える、それを見てワンダは楽しむ。
この遊戯的プレイフルな状況を揺るがすのが魔性の美青年であるギリシア人貴族アレクシス・パパドポリスなのですが、少なくともアレクシスの登場まで、ロシア人公爵の素性を調べさせたり、コルシーニ公爵に手紙を届けさせたりというあたりはあくまでもゼヴェリーンの嫉妬を意識した遊戯プレイの一環に見えます。
奴隷願望セルヴェリズム侍童願望パジズムの概念に照らせば、「毛皮を着たヴィーナス」のトリオリズムは、奴隷願望セルヴェリズム的トリオリズムです。
嫉妬や屈辱を鞭撻や足蹴と同様のマゾヒズムの「スパイス」として楽しむ。
大変に被虐的ですがしかし、ドミナの恋人の男性に嫉妬する、屈辱を感じるということは、心のどこかで自分をドミナの恋人と「同じ土俵」に上げている、恋敵ライヴァルと考えている、ということに他なりません。
侍童願望者パジストにそんな僭越なことができるのでしょうが。
ドミナの前で侍童願望者パジストは幼*児であり、不能者であり、男性ではありません。
ドミナの恋人の恋敵ライヴァルにはなりえないし、同じ土俵には上がりえない。
幼*児が母を抱く父に嫉妬しないのと同じです。
むしろ、ドミナに至上の喜びを与えることができ、ドミナの愛をほしいままにできる逞しく美しい恋人の男性に対して、憧憬と畏怖のまなざしを向けるのが侍童願望者パジストです。
同じトリオリズムでもここに大きな違いがあります。

「鬼の面」―侍童願望パジズム的トリオリズム
では、谷崎作品に現れる「郵便屋さんミスター・ポストマン」の場面はどうでしょうか。
「鬼の面」から見ていきます。
本作については「神童」と合わせて作品論を書きましたが、谷崎が北村重昌の家に書生として住み込んでいたいた頃に、少年時代の尊大さが消え、卑屈な下僕根性が身についていく青年時代体験を描いた自伝的作品です。
主人公の壺井は、物語が始まった時点で既に、主人の津村邸に住み込んでから五年近くが経過していますから、かなり卑屈な根性が備わってしまっています。
そんな壺井の下僕根性を利用し、さらに育てるのが住み込み先の令嬢の藍子です。
藍子は親に隠れて江藤という青年と交際しています。
壺井は一応藍子を監督指導する家庭教師であり、秘密交際などは諌めなければいけない立場なのですが、美しい藍子と逞しい江藤という両家の令息令嬢同士似合いのカップルの交際を黙認してしまいます。
それをいいことに藍子は、江藤との恋文の投函と受け取りを壺井に依頼します。差出人を偽って書いても、何度も手紙を往復するうちに互いの家の者に気づかれてしまうのを恐れるためです。

或る朝、壺井が登校の時間に邸の門を出て二三町行くと、後からこつこつと小さな靴の踵を鳴らしつゝ藍子が追い付いて、
「壺井さん」
と、声をかけた。彼女も丁度学校へ行くところであつた。
「ちょいと壺井さんにお頼みがあるの。済まないけれど此の手紙をあなたの名前で名宛を書いて、今日のお午までに出してくれない?成る可く此の近所の郵便箱へ入れないで本郷から出して貰ひたいの。」
彼女は息せき切つて早口に斯う云ひながら、手に持つて居る四角な封筒を壺井の胸へ押しつけた。
「はあ、よござんす、畏まりました。」


「それから、佐藤四郎と云ふ名前で、壺井さんに宛てゝ返事が来るかも知れないから、さうしたら封を切らずに私に寄越しておくんなさい。」
さう云った時、藍子は始めてにこにこと笑ひかけたが、壺井はますます事務的な句調で、
「は、承知しました。」
と、鞠躬如きっきゅうじょとして命令を聞き取つた。


壺井にはゼヴェリーンのように僭越に嫉妬したりぐずぐず泣き言を言ったりする余地はありません。
ただ令嬢の藍子が渡せと言えば渡す、届けろと言えば届ける。
その忠実さだけ。
藍子も壺井が自分を諌めたり、相手のことを詮索したり、親に言いつけたり決してできない、ましてまして嫉妬などできるような存在ではない、「安全」な存在であることを良く心得ているから、安心して命じることができるんですね。
壺井は一応藍子の恋人江藤(「佐藤四郎」は偽名)と同年代の青年ですよ。
少しは警戒してもおかしくない。
でも壺井が江藤と同じ土俵に立てるとは、壺井も藍子もまったく思っていないんですね。
だから藍子は壺井を純粋に江藤との通信のための手段として利用することができる。
壺井は自分の容姿の醜さを卑下し、級友のように美少女と対等に恋愛する資格のないことを自覚しています。

壺井は自ら顧みて皰だらけな醜怪極まる己の容貌に想到する時、自分は到底、恋愛を語る資格のない宿命を持つて生まれたのかと、そゞろに遣るせない悔恨の情に駆られるのであつた。令嬢だの芸者だのと対等に暖かい睦言むつごとを交し得る僚友の身の上を、彼は唯天上に住む別種の人間の特権として、遥かに仰ぎ見て居るより仕方がなかつた。


そして自ら手紙の遣り取りを担った藍子の恋人江藤の肉体を浜辺で盗み見て、その美しさを嘆賞しています。

贅沢な家に育てられて、贅沢な生活をして来た人は、裸体になっても其の品格を包むことは出来ない。―――壺井は青年の姿を見ると、なぜだかそんな事を思つた。筋骨の秀でた、体幹の大きい、労働者のやうな頑丈な体格を持つて居ながら、その青年の四肢の格好には何処となくすつきりとした、典雅な曲線がなだらかに波打つて居る。藍子は仕合はせな相手を見付けたものである。


この自分と第三者男性との圧倒的な非対称性が谷崎のトリオリズムの特徴です。
対象女性が惹かれるに値する第三者男性と、問題にならないほど無価値な自分。
嫉妬を惹起するという別の目的のために手紙を届けさせるのではなく、ただ単に、手紙を届けるという本来の目的のための手段として利用する。
ここに嫉妬とはまた違った切なさが生まれます。
侍童願望パジズム的トリオリズムです。

「恋を知る頃」―侍童ペジェの純情
「恋を知る頃」は、谷崎の侍童願望パジズムが非常に純粋に美しい形で結晶した傑作戯曲です。
十二三歳の少年、伸太郎の、異母姉:おきんに対するあまりにも純粋な思慕。
一方自分が幸福を掴むために伸太郎を殺害するおきんの冷酷さ。
この完璧パーフェクトな非対称性が侍童願望者パジストの戦慄を誘います。
下総屋の三右衛門の妾の子であるおきんは正妻の子である伸太郎が死ねば、恋人の利三郎とともに下総屋の跡取りになれると考えて伸太郎の殺害を計画します。
伸太郎がおきんを慕い、「此の頃、始終しょっちゅうあたしの後ばかり追っかけて居る」状況になっても、その殺意はみじんも変わりません。
おきんは下総屋の中では周囲を警戒して猫を被っていますが、伸太郎の前ではまったく遠慮がありません。
利三郎との交際も隠していますが、伸太郎の前では「子供に何が解るもんかね」と言って憚りなくイチャつきます。
そして、恐ろしいことに、利三郎と共謀している伸太郎の殺害計画を、伸太郎の目の前で、利三郎と相談するのです。
ある時は伸太郎に足を拭かせながら、利三郎に耳打ちして相談したりしています。
おきんにとって伸太郎は、何一つ警戒する必要のない「安全」な侍童ペジェなのです。
問題の手紙の場面は、第一幕、第二幕から一ヶ月あまりたった第三幕の冒頭です。
おきんは密かに伸太郎を召しつけます。

 伸太郎(中略)あたりを憚るようにおずおずおきんの傍へ近寄る。
伸太郎 (小声にて)おきん、僕に何か用があるの。
おきん えゝ、済みませんが、またお使いに行って下さいな。
伸太郎 利三どんの処へかい。
おきん たびたびすみませんねえ。―坊ちゃん、あなた鉛筆と紙を持って来て下さいませんか。
伸太郎 あゝ。
おきん 誰かに見付からないようにね。
 伸太郎、足音を忍ばせて出て行き、罫引の西洋紙と鉛筆を持って来る。


命じるおきんも、命じられる伸太郎も阿吽の呼吸で手慣れています。
一ヶ月の間におきんがすっかり伸太郎を躾けてしまい、下総屋の人々に隠れて侍童ペジェとして日常的に召使っているのがうかがえます。

おきん どうも憚り様、ちょいと待って下さい。
 二三行すらすらと走り書きして紙を細く畳み、鉛筆と一緒に伸太郎へ渡す。
おきん 利三どんにね、此の鉛筆で裏へ返事をかいてくれろッて、そうッと頼んで下さいよ。あたしが此処に居るうちに、早く行って入らっしゃい。
伸太郎 直ぐに来るから、待っておいで。


果たして伸太郎は利三郎におきんの手紙を届け、利三郎から返事の手紙を受け取ってすぐさまおきんに届けます。
この手紙の内容、これまた伸太郎の殺害計画の相談に違いありません。
おきんは返事を読み終えるとすぐさま「証拠品」の手紙を火鉢にくべて焼却してしまうのです。
さて、おきんにとって完全に「安全」な存在である伸太郎ですが、常におきんの後を慕っており、利三郎との逢瀬も覗き見ている伸太郎は、おきんと利三郎の計画を知っており、自分が届けている手紙の内容が自分の殺害計画の相談であることを知っています。
それでも、おきんが届けろと言えば届けるのが侍童ペジェです。
「鬼の面」における藍子にとっての壺井もそうですが、おきんも伸太郎に手紙を読まれることをまったく警戒していません。
読まれてもいいんです。
読まれても内容を知られても伸太郎は自分が届けろと言えば直ちに届けるし、返事も持ってくる。
完全に自分の「道具」に徹する。
そういう自負があるんですね。
そしてその自負が正しいことを伸太郎の言葉が裏付けます。

おきん あなたは私の云う事を何でもお聞きになりますか。
伸太郎 あゝ聞くよ。


おきん 私の云う事は何でも聞いて下さいますのね。
伸太郎 僕はお前が死ねと云えば、何時でも死ぬよ。


日常おきんに「道具」として喜々と召使われていたのと同様に、おきんが利三郎と幸福になるための「手段」として嬉々と殺される。
この究極の純粋な侍童願望パジズムが、谷崎のマゾヒズム、トリオリズムの本質です。

「少将滋幹の母」―身体の手段化
「鬼の面」「恋を知る頃」に共通するのは、手紙をやり取りしているカップルが交際を秘密にしたくて、秘密にしたまま「安心」して意思疎通ができる「手段」として侍童ペジェたる男を利用している、という、という点です。
この究極というべき場面が、「少将滋幹の母」に登場します。
「鬼の面」「恋を知る頃」が20代に書かれたのに対して「少将滋幹の母」は60代になって書かれたもので、谷崎が生涯変わらぬ一個の侍童願望者パジストであったことがわかります。
同作は9世紀末から10世紀初頭の史実に基づいており、少将滋幹とは藤原国経の子の藤原滋幹で、その母は美貌を多くの説話に謳われた在原棟梁の娘です。
老齢の国経は若く美しい妻(滋幹の母)を左大臣・藤原時平に奪われます。
滋幹の母はこの間も、伝説の色男であり天才歌人である平中こと平貞文と密通しています。
幼い滋幹は、母を慕ってたびたび左大臣の屋敷を訪ね、密かに母と会うのですが、平中はそれに目をつけます。
平中は滋幹に声をかけて、滋幹の母へ和歌を送るのですが、そのとき用心して、文に和歌を書かず、滋幹の袂をまくって滋幹の腕に和歌を書くのです。
滋幹は平中に言われた通りに母の下に忍び込んで、腕に書かれた和歌を母に見せます。
母はそれを読み、もう会えないと思っていた(国経を出し抜くのはたやすいが、左大臣の警戒は厳しい)恋人の便りに涙を流します。
そして、母はわが子の腕に書かれた平中の和歌を(もったいないと思いつつ)消して、その上に返歌を書き、「これをその方にお見せ」と言って突き遣り、滋幹はまた平中に母の和歌を見せに行きます。
なんということでしょう。
「恋を知る頃」のおきんでも伸太郎の身体を紙の「代わり」にはしませんでしたよ。
滋幹の母はわが子の身体を紙の「代わり」にした平中の和歌を泣いてありがたがり、みずからもわが子の身体を紙の「代わり」にし、文字通り秘密の恋の「道具」にします。
もはや郵便屋さんミスター・ポストマンですらなく、滋幹の身体が「手紙」そのものになったです
これこそ究極の「手段化」であり、究極の侍童願望パジズムですね。
この話は「後撰和歌集」や「十訓抄」といった史料に収録されているよく知られた説話を基にしています。
当然谷崎は少年期にこれらを読んでいるでしょう。
この説話が生来の侍童願望者パジストである谷崎に与えた衝撃ははかり知れないものがあるのではないでしょうか。

西洋的な自立した個に基づいたマゾッホの奴隷願望セルヴェリズム的トリオリズムと、男性性・人間性を捨象し、純粋な「手段」となることを志向する谷崎の侍童願望パジズム的トリオリズム。
同じトリオリズムでも、ここに大きな違いがあると考えています。
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