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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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「思想小説」か「好色文学」か

佐藤春夫は「毛皮をたヴィーナス」訳のあとがき(「定本 佐藤春夫全集」25巻収録)で本作を「これは一種の思想小説であって決して好色文学といふものではない」として絶賛する一方、「日本のマゾヒズム作家」(=谷崎潤一郎)を「異常な感覚のみが生温くはびこつて、何ら思索の片影もない」として痛烈に批判し、この2人のマゾヒズムを「全然別個のもの」としています。
沼は佐藤が本作を「一種の思想小説」と言ったのが気に入ったのか、「手帖」の題辞にこれを引用しています。
しかし、絶賛しているものの「何らの性的感覚もない」としている佐藤の本作の理解は本質を捉えているとは言えません。
もちろん本作は、たとえばヴィーナスを含むヘレニズム諸神を悪魔として排除するキリスト教の禁欲的価値観に対する批判など、思想的側面が色濃い作品ではありますが、その本質はやはりマゾヒストの「性的感覚」を激しく惹起し、自慰行為を伴って性的満足をもたらすことにあるはずです。
マゾヒストにはそれがわかる。
マゾヒストではない佐藤にはそれがわからない。
逆に批判ではありますが「異常な感覚のみが生温くはびこつて、何ら思索の片影もない」という谷崎に対する佐藤の評価は、谷崎自ら「彼の所謂文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない」(饒太郎)と表明した通り、ある意味で当たっています。
親友であり、因縁の深かった谷崎の本質はさすがにわかるが、それが「毛皮を着たヴィーナス」と通ずるものだというのはわからない。
批判している方の本質は言い当てているが、絶賛している方の本質は外している。
どちらも、佐藤の定義によれば彼の軽蔑する「好色文学」なのです。
豊かな教養と優れた読解力を背景に真摯に読み解いても、マゾヒストではない佐藤にはそこが分からない。
これに、マゾヒストではない方がマゾヒズム文学を理解しうる限界を見ました。

沼正三は「ある夢想家の手帖から」第一四章附記第二で次のように述べ、谷崎潤一郎の理解について佐藤春夫を含む「たいていの批評家は失格である」としています。

女に踏まれたいという気持ち(スクビズム)を実際に感じたことのない人に、『富美子の足』に踏まれて息を引きとった隠居の老人の歓喜が、『魔術師』における穿物や絨氈になりたいという切なる願いが、また、『瘋癲老人日記』の主人公の墓に女の足を彫らせようとする気持ちが、本当に理解できるのか、その理解なしに谷崎文学を十分に味わえるのか、を私は疑う


現在では谷崎の作品の主題がマゾヒズムという性的衝動であることは認知されていますが、やはり谷崎作品を読んで千回と自慰行為を繰り返した身としては、首をかしげたくなるような谷崎論はまだまだ流布されているように思えます。

実は私自身も、Yahoo!知恵袋という場所で次のように批判されたことがあります。
「谷崎文学の皮相的な題材次元のことに拘泥するあまり、一種形而上学的でさえある、谷崎固有のマゾヒズムの真相、本質には全く触れ得ていないように思われてなりません。」
批判者の考える「形而上学的な谷崎固有のマゾヒズムの真相、本質」が何なのかも説明されていましたが、確かに形而上学的で私にはよくわかりませんでした。
谷崎のマゾヒズムの本質は美しいものによって凌辱される、蹂躙される、滅ぼされる、そのことによって得られる至高の性的快楽です。
だからそれを小説に描いている。
そうではないものを描きたかったのであれば、そうではないのものを描いたでしょう。
それだけの話です。
その意図は、谷崎自身ときおり作品の中で語っています。

「時計事件もえゝが、(中略)女の事を書いたが好え。」(「The Affair of Two Watches」)
「彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない。」(「饒太郎」)
「恐らく己おれは霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌ふために生まれて来た男に違いない。己はいまだに自分を凡人だと思ふことは出来ぬ。己はどうしても天才を持つて居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間の美を讃え、享楽を歌えば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。」(「神童」)
「彼等は壺井程深刻に痛烈に、女性を渇仰かつごうし要求しては居ないのである。壺井程完全に女の肉体美を認めて、それに己の全生命を浸し漬けて、惑溺わくできし得る勇気や感受性はないのである。
「自分にはたしかにそれだけの勇気と感受性とがある」
と、壺井は念を押すやうに腹の中で云つて見た。」(「鬼の面」)
「あたしたち(注:ドミナたちのこと)の事を小説になさるなら、先生がこんな真似をして居る所を、書き洩らしてはいけませんよ。」(「少年の脅迫」)
「色情も芸術の材料にはなります。さうして其れが材料となつた場合には、その作品が与へる芸術的感興と云ふものも、色情を通しての感興でなければなりません。」(「検閲官」)


「家畜人ヤプー」に対しても、「思想小説である」という語りがさんざんなされ、中には「白人の世界支配を批判するディストピア小説」とか「鬼畜米英から豹変した戦後日本に対する皮肉」と捉える解釈も見たことがあります。
マゾヒストではない読者はマゾヒズム文学を読んでも激しく性欲を刺激されることはない。
だからその他の部分に本質を見出そうとしてしまう。
そして、自分の愛する文学が性的昂奮を惹起するためだけに書かれた、「好色小説」とするのは、何か価値が棄損されたように感じるのでしょう。
その意味では谷崎をあくまで好色小説とした佐藤春夫はさすがだということでしょう。
マゾッホも、谷崎も、沼正三も、あまりにも多くのマゾヒストではないファンに愛されてしまっている。
だから、マゾヒズムとは違った視点から語られてしまう。
それは仕方がないですよ。
残念なのは、マゾヒストがマゾヒストの視点から語ったマゾヒズム文学論、特に谷崎論がまだまだ少ないように感じることですね。
マゾヒストの読者からすれば、マゾヒズム文学とは、読んで、性的な興奮を惹起され、自慰行為を伴って性的な満足を得ることでしかないはず。
もっともっとマゾヒストがその視点からマゾヒズム文学を、谷崎を語って、「わかる!」と共感したり、「それは違う!」と議論したりしていかなければ、的の外れた谷崎論の中に埋もれて、この文豪の本質は浮かび上がってこないのではないかと思います。
当ブログはその思いを胸に、生涯をかけてマイペースに語っていきたいと思います。
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