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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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『無明と愛染』の二次創作

谷崎潤一郎の戯曲『無明と愛染』の二次創作です。
沼正三『ある夢想家の手帖から』第三章「愛の馬東西談」で紹介されている「アリストテレスの馬」をfeatureしています。


時 南北朝の頃
所 ある山奥の廃寺

舞台暗闇。突然、酔いしれたような若い女の高笑いが響く。



愛染の声 あはははは、これ、太郎どの、御山のひじりが馬になりおった。馬じゃ、馬じゃ、畜生じゃ。あはははは。

舞台明るくなる。古びた寺の本堂の奥の間。中央に上人しょうにん(四十前後の痩せた僧侶)が両手両膝をついて四つん這いになっている。その背中に、色香のなまめかしい愛染あいぜん(三十路過ぎの遊女。無明むみょうの太郎の愛人)が、上臈が着るような美しい着物を着て、腰をかけている。



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愛染 太郎どの、奥の間へ来て見てやらぬか。あの法師が四つ這いになって、喜んでわらわに乗られておるわ。早う太郎どのも一緒に乗ってやるがいい。

奥から襖を開き、無明の太郎(名高い山賊、髭をぼうぼう生やした、体つきの逞しい男)、続いて楓(太郎の妻、哀れなみすぼらしい姿)が入ってくる。様子を見て、太郎はあっけにとられる。楓は情けない声を上げてその場に泣き崩れる。



太郎 これは、いったいどうしたことだ。
愛染 どうもこうも見てのとおりじゃ。此奴こやつは、妾の馬になったのじゃ。言うたじゃろ。妾の手にかかれば、こんな梵論字ぼろんじ奴、造作もなく攻め落としてやると。やい畜生法師、お前は今何じゃ?太郎どのに教えてやれ。
上人 はい、私は、今は愛染明王みょうおうの馬畜生でございます。
太郎 上人、おぬしは、御山で教えを極めて、本物の法力を備えた聖であろうが。いかに迷うて、今更女の馬に何ぞなり下ごうたんじゃ。
愛染 (上人の背中に腰掛けたまま)ほれ、馬畜生、どうした。太郎どのに教えて進ぜよ。
上人 はい、私は、俗世にいる頃、やんごとなき姫君でいらっしった愛染明王に懸想し、毎日毎日恋文を書きましたが全て袖にされ、全てを忘れるために高野の御山に参りました。そこで修行に修行を重ね、ついに法力を会得し、一乗院の住職になったのでございます。しかし、心の中でいつも拝んでいたのは、神々しい愛染明王のお姿でした。そこな観世音の像も、愛染明王を懐かしみ、愛染明王のお姿に似せて造ったのでございます。今日この古寺の門を叩いたのも、きっと偶然ではなく、私が愛染明王を慕う気持ちが、自然にここに足を向けさせたんでしょう。私は愛染明王を一目見たときから、すぐに足元に身を投げ出して拝んでしまいたいと思うのを一生懸命に我慢していましたが、こうして奥の間で愛染明王と二人になると、もはや我慢はできず、愛染明王、愛染明王、どうか迷える私を導いてくださいと、這い蹲ってお願いをしたのでございます。すると、愛染明王は私に四つ這いになるよう命ぜられたのでございます。私はすぐさま四つ這いになりました。愛染明王は私の背に腰を掛られました。愛染明王の体が私の背に乗って、暖かい重みを感じたとき、私は悟ったのでございます。これこそ涅槃ねはんであると。私は自分の本質を発見したのでございます。私が今、何者であるか、それは、愛染明王の意思それだけが決めているのでございます。愛染明王が土間に伏せよといえば、直ちに蟇蛙ひきがえるのように土間に伏せます。地を這えといえば、直ちに蟲螻蛄むしけらのように地を這います。今は、さきほど、四つ這いなれと言われたままでございますので、私はこうして馬になって四つ這っているのでございます。
愛染 あはははは、そういうことじゃ、太郎どの。妾は此奴の仏になったのじゃ。私が命を解いて、次の命令をするまで、此奴は永久でもここに四つ這っているのじゃ。太郎どのも此奴の背に乗るのじゃ。此奴は人の尻に教えを請い、背で悟りを開く畜生法師じゃ。そなたも、此奴に教えを施してやるのじゃ。
上人 太郎どの、どうか、この畜生の背に乗ってくだされ。今、愛染明王が太郎どのに私の背に乗れといった、そのときからもう、私の背は太郎どのに乗ってもらわずにはいられないのでございます。
太郎 あはははは。よくわかった、気狂い上人。おれもおまえに教えを説いてやろう。どうじゃ。

太郎、上人の背を跨いで乗る。愛染、満足そうに太郎に凭れ掛る。



愛染 太郎どの、明晩にも此奴を高野の御山に行かせて、此奴が住職をしている寺から金目のものを全部持ってこさせよう。それから、家にいるときは、此奴を召使にして楓の手伝いをさせよう。それから、あんたが仕事をするときは、此奴を子分にするといい。
太郎 ふん、そりゃいいが、此奴に殺しや盗みの手伝いができるのかい。
愛染 どうなんだい、畜生。
上人 はい、世の中でなにが正しいとされているか、なにが邪悪とされているかなどということは、もう私には関係ありません。私は愛染明王に帰依したのでございます。愛染明王が、私の仏になったのでございます。私の経典は愛染明王のことばでございます。愛染明王が命ずること、愛染明王が思うこと、愛染明王が欲すること、これが私にとっての正しいことでございます。ゆめゆめ、その是非を逡巡するなどという畏れ多いことは思いません。私は意思も、迷いも、拘りも、誇りも、全て捨てたのでございます。いいえ、捨てたと申しますよりも、先ほど背に愛染明王を乗せたときに、すぅと、何の苦もなく、それらのものが消えていったのでございます。これこそ、涅槃でございましょう。私にとって八正道とは、愛染明王の道でございます。正しく見るとは、愛染明王の仰せの是非に一切の疑いを挟まない盲目でございます。正しく思うとは、常に愛染明王を恋い慕い、伏して敬う崇拝でございます。正しく語るとは、愛染明王に求められざるときには声も上げられぬおしになり、仰せにはただはい、とだけ答える、習性でございます。正しい業とは、愛染明王の仰せを直ちに正確に実行する忠実でございます。正しい命とは、全ての時間、全ての動作が、愛染明王への報恩につながるようにする、奉仕でございます。正しく精進するとは、愛染明王への奉仕の質量を少しでも向上させようという努力でございます。正しく念じるとは、愛染明王が何をお考えになり、何を欲していらっしゃるのか、神経を研ぎ澄まして感じようとする緊張でございます。正しく定まるとは、愛染明王に帰依することで、全ての迷いや不安から無縁でいられるという安心でございます。太郎どの、さきほど愛染明王が私に太郎どのの子分になれ、この家の召使になれと仰せられたので、これからは、太郎どの言うことも、私にとって正しいこととなりました。太郎どのに命じられれば、私は、どのようなことでも、少しの迷いも、逡巡もなく、直ちに実行するのでございます。私の仏は、二人になったのでございます。
愛染 あはははは。そういうことじゃ。太郎どの、今宵は勝利の祝杯じゃ。この世に生きながらにして仏になった祝いじゃ。あはははは。畜生、進め、囲炉裏まで連れて行くのじゃ。

太郎、愛染の肩を抱き、愛染に激しい口づけをする。上人は四つ這って背中に二人を乗せたまま、襖の奥へと這って進んでいく。残された楓、泣き崩れたまま叫ぶ。



 神も仏もない時代じゃ。この世はあさましい鬼の棲み家じゃ。

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タグ : マゾヒズム 谷崎潤一郎 沼正三 家畜人ヤプー ある夢想家の手帖から 寝取られ 三者関係 白人崇拝 美男美女崇拝 無明と愛染

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コメント

今回の作品、馬派Mのツボを巧みに表現されておられますな!

「愛染明王の体が私の背に乗って、暖かい重みを感じたとき、私は悟ったのでございます。これこそ涅槃であると。
・・・・
私は意思も、迷いも、拘りも、誇りも、全て捨てたのでございます。先ほど背に愛染明王を乗せたときに、すぅと、何の苦もなく消えていったのでございます。これこそ、涅槃でございましょう」

確かに確かに!
馬となって背に女騎手さまの「暖かい重みを感じたとき」に湧き起こる、「意思も、迷いも、拘りも、誇りも、全て捨てた」という気持ちは、まさに恍惚とするような歓喜の状態=エクスタシー=法悦でございます。
これぞ、馬派の悦び!

どうして世間の皆さまには、この悦びがわからないのでしょうか?
世間の皆さま一般とまでは言わぬにせよ、Mを自認する方たちの間においてすら、女性の馬になる悦びを解するひとたちがごく少ないという現実が、M派の中にも白人女性崇拝思想を解する人たちがごく少ないという現実と並んで、全く理解できないところでございます。

「此奴は人の尻に教えを請い、背で悟りを開く畜生法師」
という表現も、ナイスでございます!

なるほど、お馬さんでいる間は、女騎手さまが、言葉ではなく、お尻の微妙な動きを通してお命じになる、前・後・左・右・前進・停止・後退に従順に従う(・・・という境地に至るよう、調教される)のですから、まさに「人の尻に教えを乞う」のでございます。

また、背に女騎手さまの「暖かな重み」を感じ、背に伝わる女騎手さまのお尻の動きに命じられて己を没して奉仕することを喜びとするのですから、それはまさに「背で悟りを開く」状態でございます。

そしてまた、最後の上人の口上が、M男性が女主人様に抱く帰依的感情の吐露として、見事です。

世のM男性は、全て、それぞれの女主人さまにこのような感情を抱くか、もしくはそのような感情を抱くに足る女主人さまとの出会いに憬れるものと思うのですが・・・現実はそうでもないようでございます。

ただ、ワタクシの場合、最後の「太郎どの・・・」につづく2文の境地にまでは至っておりません。いわゆる「三者関係」ですね。
確かに、ここも上人の言うとおりで、異論のさしはさむ余地はないのですが・・・
女主人さまを「主」と仰ぎ、そのご命令に服すること、彼女に命じられれば、彼女の女友達さまたちの下僕にもなること・・・そこまではOKなのですが、他の男性に対してはどうしてもプライドを捨てることがでいません。
ワタクシの、Mとしての限界でございますな

ありがとうございます!

いやー、まさか、「馬派」のベテランで、知識も実践経験も豊富な仙人にこの記事をここまで褒めていただけるとは思いませんでした。

今回の小説は「怪我の功名」という感じですね。どうもうまく妄想が広がらなかったので、畜生上人の気持ちになって、「なんでこうなっちゃったの?」というのを語らせてみたんです。そしたら語るわ語るわで、意外な名言wwが飛び出しました。

「悟り」「涅槃」といった考え方は、マゾヒズムに通ずるものがあるかもしれませんね。そういえば「畜生道」なんてのもありますし…

私は今まで人間馬ってあまり興味がなかったんですが、最近はまってしまいました。というわけで、人間馬に関する記事、もういっちょ書いてみましたので、そちらもぜひお読みください♪

なお、本記事は推敲不足がありましたので、一部修正しました。

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