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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

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マゾヒズムというドグマ―エムサイズ「超私立!女の子様学園」


以前、三和出版の「女神の愛」にエムサイズの「超私立!女の子様学園」の感想を投稿したのですが、その際、最初に提出した原稿が没になり、書き直したものが掲載されました。没原稿はメインヒロインの凛子ルートを正面から論じたものですが、確かに指摘されてみたら、「そりゃ載らないわな」という内容です。とはいえ、私のマゾヒズムに対する考えのいったんは出ているかな、と思いますので、眠らせるのが惜しくなり、掲載します。




違和感と疑念
 1995年3月、地下鉄サリン事件の直後に全国の拠点に強制捜査が入り、オウム真理教の恐るべき実態が暴露されたとき、私は14歳でした。高学歴の幹部が1万5000人とも言われる信者を率い、「タントラヤーナ」「ヴァジラヤーナ」と呼ばれるドグマ(教義)を奉じて、日本史上空前の凶悪なテロ事件を実行したオウム。このとき私は、(そして多くの日本人が、)オウムにオカルティックな興味をそそられながらも、いったいなぜ、このような社会規範や自然法則に反する狂気に満ちたドグマに多くの人が惹かれていったのか、理解できませんでした。
 しかし、時を経て社会人となり、さまざまな経験を経て、社会規範、あるいは自然法則というもののもつ冷酷な理不尽さに違和感を覚えるようになりました。会社組織の中で叩き込まれるルール、商慣習、礼儀作法、業界用語、作業フロー、マニュアル…。これは一種のドグマではないのか?人を競争社会に放り込み、敗者を疎外して踏みにじる資本主義。人の自由をがんじがらめに制約する法規と契約。それを忠実に実行する国家という権力装置。これらは一種のドグマではないのか?
 もっといえば、人は、どんなに生きたいと思っていても、事故や病気に見舞われれば簡単に死ぬ。どんなに望んでも空は飛べないし、海の上を歩くことはできない。本当にそうなのか?この自然法則は、受け入れなければならない、絶対に逆らうことのできない真実なのか?これも、科学という一種のドグマを信じ込まされているだけではないのか?
 このような疑念が湧きあがったとき、オウム信者も、社会規範や自然法則という支配的なドグマに違和感を感じ、タントラ・ヴァジラヤーナに救いを求めたのではないか、というある種の共感を覚えるようになりました。 2007年夏にリリースされ、大きな反響を呼んだエムサイズの同人ゲーム「超私立!女の子様学園」。その主題は、この世を支配している「男性支配」のドグマに対する違和感と、それに対する「女性支配」という独自のドグマの葛藤です。 

いざないと葛藤
 本作の主人公:霧島和哉は、身に覚えのない事件により学校を退学になるなど、現実の理不尽さに強い失望感を抱いている少年です。そんな和哉の前に、かつて淡い恋心を抱きながら、ある日転校してしまった少女:三奈原凛子が現れます。凛子が転校したのは、「私立カトゥーリア学園」。凛子は和哉をカトゥーリア学園に入学するよう、いざないます。 凛子が和哉に見せた学園案内のDVD。そこに映し出されたカトゥーリア学園の実態は、和哉がそのときまで冷徹で理不尽ながら、いかんとも動かしがたいと思っていた現実世界の常識からは、到底信じられない驚くべきものでした。それはまるで、1995年に多くの国民がオウムの実態をテレビ画面越しに目の当たりにしたときにのような衝撃だったでしょう。
 私立カトゥーリア学園を経営しているのはM・A・M(マム)という秘密結社です。M・A・Mは、「リテアナードの約束」という非常にカルトでキ○ガイなドグマを奉じています。「リテアナードの約束」によると、女性は本来、男性をはるかに凌駕する超人的な身体能力や超能力を持っています。それに基づいて、古代は女性が支配する超文明が栄えていたのですが、あるとき女性たちは、自分たちの能力を封じ込め、世界支配を男性に委ねることを決めます。そのうちに女性たちも自分たちの能力を自覚することがなくなり、無意識に能力を封じ込めるようになって、今の世界にいたるわけですが、現代においても一定の確率でその能力が封じ込められず、顕現してしまう女性たちがいます。それが、「女の子様」です。M・A・Mは、「リテアナードの約束」の秘密を守るため、そして「来るべき理想の未来」の担い手として、女の子様を一箇所に集めて保護し、管理しています。それが、世界中に設立されたカトゥーリア学園なのです。
 しかし、カトゥーリア学園は男子禁制の女子校ではありません。共学です。女の子様を保護し、管理するために存在するカトゥーリア学園における男子生徒の役割とは何か。それは、女の子様のパートナーとして、その生涯を一人の女の子様に捧げる専属奴隷になる、その候補者として、男子生徒は学園に在校しているのです。女の子様に専属奴隷として指名されなかった男子生徒は、卒業して学園を去り、社会に復帰することになります。光栄にも女の子様に専属奴隷として指名された男子生徒は、女の子様とともにM・A・Mに伝わる秘儀を受け、永遠に女の子様に絶対服従する専属奴隷として生涯を学園ですごすことになります。
 どうですか、同好のみなさん。あなたの前に女の子様があらわれてDVDを見せ、奴隷候補としてあなたをカトゥーリア学園にいざなったとしたら、あなたならどうしますか。「カルト」「キ○ガイ」と罵って追い返すことができるでしょうか。できるという方は、今生きている世界に充足感を感じている立派な大人で社会人、ということでしょう。逆にいえば、今の世界を支配しているドグマにどっぷりと漬かってしまっているといえるかもしれません。入学したら二度と戻れないかもしれないとわかっていても、心が揺れ動いてしまうかもしれないと思った方は、現実に対する違和感や逃避願望を捨て切れていない、健全な弱い心を残している、ということだと思います。
 和哉もにわかには「リテアナードの約束」を信じられず、葛藤します。和哉の弱い心につけこむように、凛子は甘く誘惑します。

「この際、信じる信じないは置いておいて、大切なのは、キミがこれを見てどう感じたか。あんまり悪いふうには見えなかったけど。どう?」

 凛子の言葉に誘われるままに、和哉の心はカトゥーリア学園に傾いていきます。 カトゥーリア学園に転入を決めたあとも、和哉の疑念は続きます。学園に向かう途中で一度、不安のあまり逃げ出そうとするのですが、そのときに凛子の女の子様としての能力を初めて目の当たりにし、思い直してし学園に向かいます。これは、オウムが入信段階のヨガ・セミナーで見せる「空中浮揚」などの神秘体験と符合します。

閉ざされた世界
 カトゥーリア学園は、深い森に覆われた山の上に広大なキャンパスをもっています。入学した者は、原則として外出が許されませんし、校則を破って外出しようとしても、自力では下山する手段がありません。カトゥーリア学園への入学はいわば、出家です。この外界と物理的に隔絶して人や情報の行き来を遮断した閉鎖空間を作ることが、独自のドグマを守るための重要な条件となります。オウムが富士山麓に設けた「サティアン」と呼ばれる施設が想起されます。
 学園内では、学園が理想の楽園であり、外の世界の堕落や危険性がことさらに強調されます。

「ここは社会と隔絶された、特別な場所。貴方を取り巻いてきたあらゆる残酷なものも、ここには立ち入ることは出来ないわ」(神崎学園長)

 カトゥーリア学園こそ真の楽園である。葛藤や疑念を捨て、そう信じてきってしまえば、学園はあなたにとって本当の楽園になります。自分の理想の女の子様に全身全霊を捧げて日々精進し、女の子様に認められれば、永遠の若さを保つ女の子様の元で一生を専属奴隷としてすごすことができます。

巴―主体性の放棄
 自己決定権というかけがえのない自由を手にした現代人は、その代償として、人生の進路、その場その場の行動の判断をすべて自分で決めなければならないという責任を負わされています。誰もが一度はその責任を放棄したい、と望んだことがあるのではないでしょうか。中には自殺によって無にかえることを選択する人もいます。そうではなく、自己決定権を愛する女性に委ねることを選択した人が、マゾヒストです。奴隷は主人に、家畜は飼主に、子供は母に自己決定権を委ねた主体性のない存在ですが、マゾヒストはこれらへの変身を志向します。そして究極的には、存在すべきか否かの判断をも他人に委ねる、つまり「器物」になろうとする者もいます。
 カトゥーリア学園で、そんな究極の願望を満たしてくれる女の子様が、華道部部長の高月巴です。巴は全ての男子生徒を「器」の候補としてみています。「器」とは、花を生けるための「花器」を意味する場合もありますが…必ずしもそうとは限りません。「器」に何を満たすかを決めるのは、その所有者である巴が決めることですから。
 巴は「器」の候補者に客人としてお茶と手作りのお菓子を振舞うんですが、おそらくこの時点で巴の「器」に対する適正テストと馴致は始まっています。和哉はこれに舌鼓を打っておかわりをするほどの食べっぷりで、

「やっぱ綺麗な人が作るものは綺麗だなぁ」

などと感激の声を上げています。巴には和哉がやがて「巴の作るもの」を受ける「器」になることを自ら懇願する姿が、このときすでに見えていたのかもしれません。

菜央―贖罪としての少女崇拝
 判断力の未熟な少女に、あえて自己の処分権を委ねたいという少女崇拝者の願望(ロリータ・マゾヒズム)を満たしてくれる女の子様は、中等部の日中菜央です。少女崇拝は、穢れの意識、とりわけ自慰行為に対する罪悪感から逃れるため、清らかな穢れなき少女の手によって懲罰してほしいという願望の顕れです。

「そうだ!じゃあ先輩、椅子になってくださいっ!」

という菜央の無邪気な命令をきっかけに、和哉は毎晩、菜央の清純を汚すような不埒な妄想でオナニーをするようになります。和哉の願望を見抜いた菜央は、無邪気な好奇心から、和哉の願望を次々にかなえていきます。

「まだ他にも…ありますよね~?先輩がどんな想像しておちんちんいじりしてたのか、菜央に全部教えてください~♪」

 和哉は「妄想オナニーで菜央を汚している自分」を菜央にさらけ出し、菜央の手で罰してもらうことで、「優しくて面白い先輩」を演じて菜央を欺いていたときの罪悪感から解放されます。
 巴や菜央に忠誠を誓えば、カトゥーリア学園は本当に永遠の楽園になります。永遠に女の子様のそばにいて、やがて認知しうる世界の全てが女の子様になっていきます。あなたと女の子様との世界を邪魔するものは何もありません。

凛子―「ここではないどこか」へ
 しかし、最終的に凛子への愛を貫いた和哉は、どうしても学園に対する疑念や違和感を捨てきることができません。本当に、このままここにいていいのか。あれほど失望していた外の世界のことを思い出すことが多くなってきます。 そんな和哉の変化に、凛子はヒステリックに反応し、戦きます。

「外の世界みたいな残酷な事は、ここでは一切起こらないんだよ。キミも言ってたじゃない。こんな社会じゃ、将来の希望なんか持てないって。」
「ここにさえ居れば…ここにさえ居れば、不安なことなんて無いんだよ!?わざわざ自分から、苦しい思いする必要なんてないよ―…!忘れさえすれば、外の事なんて忘れちゃえば、楽しく暮らせるよ…!!」


 まるで、映画「ショーシャンクの空に」で仮釈放を恐れる囚人のようです。凛子にとって外の世界は、忘れたいだけの恐ろしい世界。それでも和哉の導きによって、凛子も学園との決別を決意します。
 しかし、カルトの常として、カトゥーリア学園も簡単には外の世界には帰してくれません。ドグマに疑念を持ち、閉鎖空間から外に出ようという行動自体が、ドグマを疑いなく信じている者に動揺を与えるだけでなく、内部の実態が外に暴露される危険もあるからです。オウムが初めてヴァジラヤーナに基づく「ポア」を実行したのも、教団に疑念を持った信者の脱会を阻止するためでした。ここから、和哉と凛子の本当の戦いが始まります。
 さて、ここでもう一度、凛子が和哉をカトゥーリア学園に誘ったシーンに戻ってみます。実はここで、カトゥーリア学園への入学を拒否することも可能です。その場合和哉は凛子と再会した記憶を消され、不幸で退屈な人生を送りますが、DVDの強烈な印象が深層心理に影響したのか、和哉はマゾヒストになっています。そんなある日、10年の時を経て、若く美しいままの凛子が、またも和哉の前に現れます。 人は常に、今いる場所への疑念や違和感を捨てるきることができません。そして、「ここではないどこか」に理想を求めてしまいます。塀の中にいれば、外の自由が恋しくなるし、外の世界の荒波にもまれていれば、塀の中が安らかな楽園に見えてしまう。10年間離れていても、和哉にとって凛子はいつか安らかな楽園へと自分を導いてくれる女神として、凛子にとって和哉はいつか閉ざされた世界から自由な地平へと自分を救い出してくれるヒーローとして、互いの心の片隅に存在しつづけたのかもしれませんね。
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